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【断片小説】カマキリ男のアンガーマネジメント

不忍改札

あんまり褒められたような癖じゃないのは、自分でもよくわかっている。だけれど、皆誰しも経験自体はあるんじゃないかと思う。例えば、電車に乗っていて隣に好みの人が座ってきたとする。髪型から靴の磨き具合にかけて満遍なく観察をして、容姿の採点と、大まかな趣味嗜好・価値観の推測を行う。そして指輪をしていないことを確認したり、横目でスマホを覗いたりして、誰か特定の人物に対して愛するメッセージなんかを送信してやいないかを確認をする。一体全体どのような会話が繰り広げられ、メッセージの相手とどのような感情を共有しているのかを推察したりする。もしかしたらそこに自分が身を滑り込ませることのできるような隙間がありやしないか、などと期待する。しかし、やがて声をかけて無理矢理にでも関係性を築こうとしない限り、我々は色の濃い真っ赤な他人同士なのだということに気づき、そもそも声をかけるような度胸もないことに愕然とする。結局のところこの人に対して次々と湧いて出てくる仮説の数々は、ただの無害な妄想なのだと諦める。そして付随する恥の感情(何をバカなことを考えているのだろう僕は…)を以て、これらの妄想を断ち切る。赤い血しぶきが飛び散るくらいに切り刻んでもいい。とにかくこれらは噓っぱちなんだと。
ある種オートマチックにこの癖は再現される。何度も。1人で勝手に期待して、勝手に傷つき、怒りを覚える。


上野駅の不忍改札を抜けて、エスカレーターを下っていた時もいつもの癖を発動させていた。高級そうな着物に身を包んだ初老の女性の、これまた高級そうな革のカバンを見ていた。どこかの湿原で日向ぼっこをしていただけのクロコダイルだかアナコンダだかを捕獲し、殺し、加工して作った、どこかの保護団体が怒りにくるうような代物のカバンだ。僕は背が高いので、たまたま彼女の口の開いたカバンを上から垂直に見下ろすことが出来る。そして妄想するのだ。彼女がうっかり着物の裾をエスカレーターに挟んでしまう。僕は颯爽とエスカレーターの下の方まで一気に駆け下って、そこにあるはずであろう緊急停止ボタンを押す。いきなり着物の裾を力任せに引っ張ってみろ。きっと彼女は僕の事を暴漢痴漢野郎だと思うだろうし、この高級そうな着物も下手したら破れたりするかもしれない。そういうことを考慮し、エスカレーターを停止させた僕に、彼女はSOSサインを送ることだろう。そうして僕はしっかり彼女に失礼を断ったうえで、丁寧にエスカレーターに挟まれた着物の裾を自由にしてやるのだ。きっと彼女はお礼にカバンから金一封を取り出して「こちらはちょっとしたお礼です」とか懇切丁寧に渡してくれるなり、あるいは有効なコネクションを紹介してくれるかもしれない。なんてったって僕は彼女の着物の裾を救ったばかりではなく、バランスを崩して怪我をするのを防いだんだ。そして、これが最も重要なことで、彼女は仁義と礼節に富んだ金持ちの初老の女性で、僕は出来ればまとまったお金が欲しい。需要と供給の十字路のど真ん中に仁王立ちできるくらい状況は整っている。まあそういう棒弱な妄想と期待だ。そして、そんなうまい話があるわけがない、バカじゃないのかと自らを恥じるのだった。僕たちはこれまでと同じように黙って別々の道を歩もうじゃないか。

だがしかし、今回は違った。見下ろした高級そうなカバンの中で、物騒なものを確認してしまったからだ。真っ黒い筒に色とりどりの導線が繋がれ、それはデジタル数字をカウントダウンしている液晶画面を埋め込んだ電気回路盤に繋がれている。なんと、これは爆弾ではなかろうか。これが爆弾じゃなきゃ、質の悪いジョークグッズだ。不審なものを見かけたなら、さっさと鉄道警察隊に駆け込むか、110番に通報すればいいんだろうけど、魔が差したんだろう。僕は彼女に声をかけてしまった。
「あの、失礼ですがすいません。そのカバンの中身って…」
既にエスカレーターを降りきって、不忍口へ向けて足を進めていた彼女はこちらを振り向いた。眉間に寄せていた皺は、僕の顔を見た瞬間、突如として融解する氷塊のごとく、柔和な表情の形成に大きな貢献をした。そして、正しく年齢を刻んだために深くなったほうれい線とほうれい線の間の、大きな口からこう発言した。今思い出したんだが、そういえばそうだな、彼女はこんなご時世でもあるのにマスクをしていなかった。
「それでは、あなたなのですね。わかりました。確かにこれはあなたが思う通りのものです。それでも少しお話をいたしましょうか。時間はそう残されていませんが」

噓っぱちであってくれと、切に願ったよ、僕は。

喫茶店


僕の好奇心と妄想癖がもたらしてしまった事件の片鱗がまず導いたのは、高架下の喫茶店だった。
「上野駅までこれを運ぶことが私に課せられたミッションでした。そして最初に声をかけてきた人間にこれを引き渡すことが、果たされるべき一つの条件でした」、老婦人はすっかり安心しきった顔でソーサラーからカップを持ち上げた。
「そして、次の運び地点を私独自で決め、必ず事をやり遂げさせることが次に果たされるべき条件です」、そう言ってしまうとカップの端に口をつけた。どうやら僕は運び屋の片棒を担がされてしまったらしい。噓っぱちであってくれと、諦め悪く願ったよ、僕は。
「待ってください。そもそも一体全体誰がこんな物騒なミッションをあなたに課したのですか? それ相応の見返りがあったとでも言うのですか?」
彼女はカップをソーサラーに戻し、口をつけたところをペーパーで軽く拭き取ると、ソーサラーごとそれを隅に追いやった。もう十分です、と。それから再び眉間に宿命的といっていいほど深い皺を寄せ、言った。なんというか、こういう皺というのは生まれたら最後、マジのマジで最期の瞬間にも刻まれるんだろうな。
「それは"我々"です。そして見返りは自由です。少なくとも自由になれるだけの報酬があるでしょう」
僕はコーヒーを飲むために顎下までマスクを下げようと、指を口元に伸ばしかけていたのだが、思いもよらずそんな間抜けなポージングを留めることになった。いまひとつ彼女の言うことを掴めないでいたからだ。彼女は眉間に皺を寄せたまま器用に微笑んだ。
「体制を維持するために、個人の自由が蝕まれるのは産業社会である以上は自然なことです。ですが、私はいささか疲れました。私は私なりに努力をしていたつもりです。緊急事態宣言発令の下、外出を自粛し、営業を自粛することで問題を回避するよう努めてきました。私は私の大切なお客様と、大事なスタッフを守るため、徹底して対策を施しました。宣言が解除されたあとの、かりそめの緩和期間にあっても、それを徹底してまいりました。ですが、冷や飯とバッシングを受けるのはいつだって我々なのです。あなたもおわかりいただけることだろうと存じます。私は、我々は、何とかして社会と自分たちを繋ぎとめようとしてきました。社会が求める体制維持に対して、小市民ながら懸命に奉仕し、見返りとしてわずかな自由を謳歌できることを期待しながらも、厳しく律してきたつもりです。しかしながら、私はいささか疲れてしまったのです。正直に告白いたしますと、自ら命を絶とうとさえしました。我々が手を差し伸べてくださったのはそのときです。自己破壊的行動は現代社会と断絶された感覚に根差すのだと気づかされました。そしてその破壊的行動は常に怒りによって自我を保ち、されどまた別の怒りによってその命を絶たれるのです。"我々"は私の手を取り、断絶された感覚を、その断片を繋ぎ合わせるように丁寧に結んでいきました。繋がれた手のその先にようやく、新たなる自由と秩序が生まれるのだという漠然とした感覚が私を包んでくれました」
彼女は、一息でそこまで話してしまうとウェイターを呼び止め、水を2杯注文した。僕はなんと言い返したらいいのかわからなかったので、早くもぬるくなり始めたコーヒーを半分ほど飲むことにした。そして話の続きを待った。
「あなたに声をかけられた瞬間、私はあなたの中に潜む怒りを感じ取ることができました。あなたもまた私たちと同じなのだと」
「残念ながら、と言わせてください。私は確かに怒りを感じていましたが、その矛先は違います」腹の虫がそう言うのだから間違いない。腹の虫と相談できるわけでもないが、分かる。
「僕は僕自身の不甲斐のない恥に対して怒りを感じていただけです。あなたのように、傍若無人な社会体制に怒りを覚えていたわけではない。いや、えぇ、たしかに。いささかなりとも今の社会体制には疑問を感じます。前政権が掲げた新自由主義に対しても、もっとこう、なんといいますか、煮え切らない想いはたしかにあります。社会に対しても、あなたが"我々"と呼ぶ存在に対しても、僕やあなたの存在が余りにもちっぽけであり、弱い存在だということを重々承知しています。だからこそ本来ならば僕やあなたのささやかな自由その他すべてが、彼らによって守られるべきだということも、確かに思います」
ですが、と僕は彼女のカバンを指差す。恐らく爆弾の詰め込まれたカバンだ。「僕は、"我々"と呼ばれる側には賛同できません。あなたの話を聞いている限りでは、”我々”はあなたの怒りから生じる破壊的行動を自己から社会へと向けさせようとしただけに過ぎません。それでは何の解決にもならない」僕はそこで、深呼吸をする。「そんなことでは―」
マスクをしたウェイターがタイミングを計ったように、グラスを僕と老婦人の前に置いた(水を差すという慣用句はこのように生まれたのだろうか)。そこで始めて自分が、身を半ば乗り出すようにして老婦人に迫っている格好になっていることに気づいた。老人を脅迫する若者のテンプレートになりそうな絵に見えなくもない。
「すいません」、僕は椅子に座り直し、老婦人に軽く頭を下げた後、ウェイターに対しても同じ気持ちで目くばせをした。ウェイターは立ち去った。僕は、一体全体何を言っているんだ?

弁天堂


「水なのですね」彼女は、グラスの水をワインに変える奇跡を起こそうとしているキリストよろしくじっと見つめながら言った。
「水があらゆることを解決してくれると思うのですよ」そしてグラスに口を付け、ひとくち、ふたくち、それからテーブルに音を立てないようにそれを置く。「いえ、まずはそうですね。認めることにしましょう。私は、"我々"の行動指針の矛盾に気が付いていました。破壊的行動は何も生まないということも。ですがそれが一番の解決方法だと信じていました。そうすることで多少なりとも、私はこの理不尽な状況から解放されるのだという諦めに似た期待があったのです。私は社会によって理不尽に切り刻まれた自らの傷の奥深くに、確かに悪魔を見たのです。心の内に潜んでいた悪魔を解放することで救われると思っていたのです。それが"我々"の望むところでした。ですが、私は自分よりも巨大な存在に対して、あなたのように蟷螂の斧を持ち合わせて対抗する術はないのです。いえいえ、無謀という意味ではなく、そのことわざの出自を鑑みて申し上げますと、勇気という意味です
彼女は眉を下げ、目尻を下げ、顔中のパーツを下げられるだけ下げた。ひどく老け込んだように見えた。僕はグラスに手を伸ばし水を飲んだ。身体の内を流れていく水の存在を、その冷ややかさから確かに感じることが出来た。そして、声をかけるべきなのかいつものように迷っていた。見てきた感じ、これは噓っぱちなどではなさそうだ。だがしかし…

「助けていただけませんか」、彼女は水を飲んだにもかかわらずしゃがれ声で懇願した。

僕は、思うのだけれど、真実とはいつも向こうから声をかけてくるものなのだろうと思う。それが真実なのだと立証する術はどこにもない。もしかしたら、やはり結局のところそれは噓っぱちそのものなのかもしれない。だけど、信じることでしか、真実の存在を立証することができないのなら、やはり信じてあげるべきなのだろう。つまり、僕の今の複雑な状況は確かに起こっていることで、彼女もまた確かにこうして助けを求めている。ならば信じるしかない。真実の仮面を被った噓っぱちなのだとしても、やはり信じてあげることでしか救われない何かもまたあるのだ。


「わかりました。そのカバンを渡してください。これであなたの果たすべき条件の一つ目はクリアです。二つ目の条件ですが、場所を指示してください」指定された場所にまで持っていけば、自ずと条件2もクリアだ。彼女は救われるだろう。彼女は、口角を少しあげ、感謝を述べた。
「ありがとう。そうですね。それでは、場所を指定いたします」、そして深呼吸をする。
「水です。水のある場所ならどこでも。我々はあらゆる場所からあらゆる方法を使って、あなたが成し遂げてくれることを見守っています。社会があらゆるところに存在し、あなたを監視しているように。なるだけ急いでください。残された時間はそう長くはありません」
彼女はデジタル数字のカウントダウンが見えるように、カバンを手渡した。たしかに、残された時間はそう長くはない。
「申し訳ないですが、ここの勘定は任せてもよろしいですか」そう言いながら、僕はもう既に席を立っていた。
「えぇ、もちろんです。あなたには、感謝しか、ありません」老婦人は、一度堅く目を閉じると、芯のある眼差しで僕を見つめた。
僕は、自分でもこんなに晴れ晴れとした笑顔を誰かに向けることができたのだなと半ば驚きつつ、言いようによってはかなり深い関係性を結んだ老婦人に笑顔だけを残して、店を後にした。


平日の上野駅前、高架下には何人かのホームレスがたむろっていた。誰も彼らの名前も知らないし、もしかしたら彼ら自身、自分たちのことを知らないのかもしれない。彼らの存在は、僕にとって、我々にとって、あるいは社会にとってどのような立場にあるのだろう。


時間がない。そんな考察は後回しだ。


僕は、信号が青になるのも待たずに横断歩道を渡った。京成上野駅の横を駆け抜け、動物園通りを北に走った。すると左手に不忍池が見えてくる。今日は動物園は休園であり人通りは少ない。車の隙を狙って、車道を横断する。弁天堂まで一直線に走る。どうやら周囲には人影はない。僕は、立ち止まり周りを見渡す。老婦人は、水のある場所と言った。水のある場所ならどこでも。そうすればすべて解決する。時間は本当に残り少ない。僕はどうにでもなれとばかりに、弁天堂の周りをぐるりと囲んだ手すりに、足をかけ、そして振りかぶる。カバンを持った手が頭上の少し先をいった時に、カバンから手を離す。瞬間、嗚呼、下手投げの要領で投げた方が、より遠くへ飛んだはずだったなと軽く後悔する。とは言え、カバンは放物線を描き、池の沖合、鬱蒼とした蓮と蓮の間に滑り込むように着水した。

カマキリ男のアンガーマネジメント


最初は、単なる妄想であり、噓っぱちであった。嘘は嘘であり、仮説は仮説、妄想は妄想でしかないのだと、僕は十分理解していたつもりだし、その分恥も感じていた。怒りさえ覚えていた。腹の虫が暴れ、自制が効かないこともあった。でもそれは全部自分の中で完結する怒りだった。それがどうだ。他人の手に余る怒りを引き受けてしまったがために、噓っぱちを最後には信じることとなってしまった。おかげで、自分自身に対して恥じらう気持ちはなくなった。なにせ、これであの老婦人を救うことが出来たのだから。少なくとも、彼女が救われたのだと信じてあげなければ、僕自身もまた救われないはずだ。もしかしたらこれも全て、”我々”の手の内だったのかもしれないが。ただ、水に沈んでいく不審物を見ながら、確かにそいつは役目を果たしたように思えた。そもそもがお粗末な出来だったが故に、火薬なり起爆装置なりが湿って爆発しなかったのか。それともただの見せかけで、起爆装置なんてものはセットされていない玩具だったのか。僕はその手の爆弾についての知識には全く疎かったから本物かどうかの判断はつきかねた。怒りという感情が、そもそも真実だったのか、噓っぱちだったのか。だがしかし、波紋ももう収まり、余りにも蓮が多いがために一体どのあたりにカバンが沈んだのかさえ今ではもう分からなくなってしまっていた。

「質の悪いジョークだよ、まったく」僕は声をあげて笑った。腹の虫の気配も感じなかった。

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