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【断片小説】ラプソディー・インコ・ブルー

 インターホンを押してしばらくした後に、玄関の扉は開いた。中から顔を覗かせたのは白髪交じりの男性だった。額は広く、豊かではあるがひどく軋んでいそうな髪の毛をオールバックにしていた。眉毛は太めに揃えられ、フチなし眼鏡の奥の、いささか大きすぎる瞳には光はなく、深い暗闇を宿していた。ひどく痩せていて、普段から日に当たっていないのか肌は青白かった。その姿は祐作にくたびれた猛禽類を連想させる。夏の日、アスファルトからウヨウヨと蜃気楼が浮かんでくるようなそんな時間帯。
 彼は祐作をつま先からひとつぶさに観察し終えると、一度頷きひどくぶっきらぼうな声で「どうぞ」と呟いた。流石は駅前のタワーマンションと言うべきか、廊下はとても長い。いくつもの扉が壁に沿って並び堅く口を閉じていた。五十路近い風体の男性が一人で暮らすにはいささか部屋が大きすぎるな、と祐作は感じた。
 客間に通されると、長いソファに座って左の親指を上にして手を組んで待つことにした。祐作が部屋の隅っこで布を掛けられた鳥かごを見つめていると、彼はお盆の上に二つの湯呑みを持ってキッチンから戻ってきた。
「それでどこのチラシで知ったのかな?」と、湯呑みを祐作に差し出しながら言った。
「帰り道の大橋小学校の前の電柱にチラシがあって、そこで知りました」祐作は、湯呑みの中身がただの冷たい水であることに少なからず安心した。もしかしたらこの男は普段は熱いお茶だけを飲んでいるのかもしれない。今日みたいな暑い日でさえ。
「ふむ。それで、是非とも捜索に協力してくれると」

青いセキセイインコです。
不注意で飛んで行ってしまいました。
大切な家族です。謝礼金10万円払います。090-〇✕38-△▢55


 小学校の前の電柱に辛うじて貼りついていたチラシは雨風に晒され、半分に裂けていた。それが謝礼金10万円という金額の大きさが醸し出す胡散臭い雰囲気をさらに助長していたが、祐作にはあまり時間が残されていなかった。
「あの、失礼なんですけど、謝礼金って」
「もちろん、見つけてくれたら払うよ。彼女は私の大切な家族だからね。それにこいつも寂しがっている」と彼は立ち上がり、隅の鳥かごの覆いを外すと、興奮してバサバサ翼を動かし始めたインコを顎で示した。黄色のインコだった。
ヨサンカ!カー!ヨサン!と何やらわめいている。カラスの声真似でもしているのだろうか。
「それで捜索するにあたってもう一度そのインコの特徴とか教えてください」
青い羽が特徴で、模様はさざ波のよう。嘴の上の鼻はピンク色に染まっている。寂しがり屋だが、とても頑固だ。名前はピィ。
「ピィちゃんがいなくなってからどのくらい経つんですか?」
「2…いや」そこで一呼吸を置く。男のフチなし眼鏡がキラリと光を反射して一瞬奥の暗い瞳を隠した。風のない深夜の窓ガラスのような沈黙が流れた。「2週間。今日で14日目だ。まだこの近くをウロウロしているのかもしれないが、もしかしたら隣町まで飛んで行ったかもしれない。毎日、不安で仕方ないよ。君は小学校のチラシを見たんなら、そこが今の捜索範囲の外枠だ」男はそう言いながら、また鳥かごに布を被せた。知らない人を見ると興奮してね、すまないと彼は言った。

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「単なる好奇心で聞くんだが、君は謝礼金をなんに使うんだい」と男は湯呑みが汗を掻いてテーブルに作り出した水溜まりを布きんで拭き取りながら言った。
「彼女に、アクセサリーを、ネックレスみたいなのを贈ろうって考えています。僕らもうすぐ付き合って1年なんで準備に時間ないんですよね。それに今コロナ騒動で会いづらいじゃないですか。ここしばらく外出自粛だったんで会えてなかったんですよ。毎月の記念日もちゃんと祝えていない。デートもしばらくしてませんし」祐作は1つ嘘をついた。
「これはしがないおじさんの独り言と思って聞き流してほしいんだが、そんな高価なプレゼント、彼女さん引け目を感じちゃったりしないかい。現実的に、一般的に考えて。株で大儲けして余裕を持って生活している私でも、そんな高価なプレゼントは気が引けてしまうよ」
「引くだなんて、彼女に限ってそんなことないですよ。僕らの愛は強いです。」祐作は嘘に嘘を重ねたが、最後の一言は本当のことだった。しかし口に出した後で妙に気恥ずかしくなってしまった。
「いいねぇ、若いって」男はぶっきらぼうに、祐作の感じている気恥ずかしさをからかった。

 それでは見つけたらご一報しますと挨拶を済ませ、祐作は男の部屋を後にした。表札には「鳥飼」と書かれている。インコ飼いの鳥飼さん、鳥に逃げられる。なんだか皮肉な話だよな。と祐作は無表情で呟いた。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 逃げてしまったインコが帰ってくる可能性は極めて低い。多くはカラスなどの天敵に襲われてしまう。運よく生き延びていても冬を越せない。歩きスマホをしながらざっと調べてみるとわかることだが、世の中では結構な数の人間がインコを逃がしてしまっている。インターネットで調べるよりは、専門家の意見を取り入れた方がいいだろうと街のペットショップへ行くことにした。
 もじゃもじゃした頭の、若い中性的な風貌の店員は、祐作に向かって快活にセールストークを始めた。初心者の心得、オスとメスの見分け方、えさのやり方、水の取り換え方、芸の覚えさせ方、最新の鳥かごの優れているところ。オウム、ヨウム、インコの違い。ライトグリーン、ハルクイン、ルチノー、オパーリン。そして、迷子になってしまったインコの探し方を尋ねてみたが、やはり厳しいとのことだった(いやぁ、厳しいっすね、と店員は頭の後ろを搔きながら言った)。
 祐作はその返答にうなだれたが、一つ悪いことを思いついてしまった。店内のセキセイインコの種類は豊富で、ここでならピィちゃんの特徴にあった青いインコを見つけ出せるかもしれない。
 5000円でオパーリンのインコを買う。謝礼金の10万円と既に自分だけの口座に振り込まれている特別定額給付金10万円。それらの収入があるのだから、このくらいの額は自分の腹を切ってでも出してしかるべきだろう。店員はしきりに最新機能つきの鳥かごを売ろうとまくしたててきたが、自分は飼うつもりもないので簡易的な必要最小限の機能が備わった小さな鳥かごを飼った。

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 祐作は夜八時近くなってから、鳥飼に電話をかけた。
「朗報かい?」
「えぇ、見つけました。駅近くの、マンションにも近い中央公園の駐輪場そばの街路樹にいました。なんだか童話みたいじゃないですか。探し回って探し回って、結局青い鳥は傍にいたんですよ。今うちで預かっているんですが、少し元気ないみたいです。一旦安静にさせて明日朝10時くらいにお届けにあがります」
「ありがとう。本当にありがとう」鳥飼は電話の向こうで頭を下げている様子だった。
「鳥飼さんの部屋ってドアいっぱいありましたよね。奥さんとか子どもとか家族とかと暮らしてないんですか」と祐作はインコ保護という偽りの朗報をでっち上げた罪悪感を脇に追いやり、気になっていたことを尋ねた。
「彼女はある日いなくなったんだよ。She’s gone」
眉毛の吊り上がった髭の濃ゆい外国人の顔を一瞬思い浮かべた。
「インコみたいに?」と祐作が生意気な冗談を言うと、鳥飼は声を出して笑った。
「まぁ、そうだな。愛してたのにな。結婚生活の終焉とはあっけないものだよ」
「でも喜んでください。少なくともインコの方は帰って来ますよ」
沈黙。さざ波みたいなノイズが通話部分に走る。

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「確かに、そうだ。私の鳥だ。ありがとう」明くる日、玄関口で鳥かごに入った青い鳥を受け取り、しばらくその鳥を観察した後で、鳥飼は祐作に礼を言った。それから封筒に入った謝礼金を手渡した。手渡すとき、祐作の目を鳥飼はしっかりと見つめた。祐作は、一瞬たりとも目を逸らすまいとしていた。祐作は深く一礼した後で振り返りもせず、エレベーターホールに向かって走って行った。おそらくその足でプレゼントを買いに行くのだろう。

 少年を見送り、玄関を後にすると鳥飼は廊下を突き進み南側のドアを開けた。一斉に8羽の青いセキセイインコが鳴き出す。2メートル近くはある大きな鳥かごの中でインコたちは忙しなく飛び回っていた。どれもこれも意味不明の言葉を鳴いている。それはインコが模倣する人間の声ではなくて、インコがインコ本来の鳴き声を叫んでいるのだ。そしてそれは人間には理解できない。インコが模倣し発する偽りの言葉に、真実など本当のところありはしない。だがしかし、と鳥飼は思うのであった。少年に嘘をつかれ、それが嘘だとわかったうえで受け入れた。もしかしたら、愛する人の声で名前を呼んでくれる奇跡を信じていたかったのだ。そんなことは起こりはしないのだという事実に目を逸らして。
「佳代さん、君の声で僕を呼んでくれるあのインコは、またしても見つからなかったよ。幾度と一縷の望みを抱いて、色んなところに協力を仰いでは騙されてきたのにね。いい加減に現実を見た方がいいのは、僕のほうなのかもしれないね。She is gone. 死んでしまった君と同じように、あのインコはもうここには帰ってこないんだろう。このインコは君の声を知らないんだ。それでも僕は、あんな嘘をつかれたけれど、あの少年の彼女さんへの大きすぎる想いがちゃんと伝わるように願っている。ねぇ、佳代さんも彼のために願ってあげてよ。明日には警察への捜索願も取り消すし、チラシも剥がすからさ。愛はここにあるんだ。それでいいと思う。希望なんてもうなくてもいい」
 鳥飼は鳥かごというよりは、もはや檻にも見えるその空間に、青い鳥を放った。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 祐作は、20万円の婚約指輪を片手にドアの取っ手に手をかけた。もう少し。 
 ドアを開けると、彼女はベッドの上で眠っていた。明るい陽光が病室の隅々まで照らしていて、天界の神々の寝室のように思えた。だが、彼女は青白い顔をしている。閉じられた瞼だけでなく顔全体にうっすらと細い血管が見える。唇だけがなぜだか全く色味がないというのに濡れていた。
痩せほそってしまった彼女の指を手に取る。長く会っていない間にこんなにも痩せてしまうなんて。どう見ても、指輪のサイズが合わない。そんな気がした。祐作は声も出せずに泣いた。
 愛はここにある。ただし、希望ははるか遠い。

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