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セレスとムニョスと和歌山の湾岸道路

プロレス、総合格闘技、K1と、格闘系スポーツにこだわって、長くファンを続けて来たのだけれど、一試合一試合の重みを感じるボクシングへのこだわりが強くなった。

そんなボクシングファン同士で過去の名勝負の話になると、何人かは「日本国内で行われた世界タイトルマッチだとセレス小林対ムニョス戦だなあ」と、2002年3月9日行われたこの試合をあげる。

私もこの試合は国内の世界タイトルマッチ屈指の名勝負だと思う。そして、この試合を思う度に、純粋にこの当事者のセレス小林でもアレクサンドル・ムニョスでもない、ひとりの友人のことに想いを馳せてしまう。

ちょうど20年前の、2002年3月のその日、当時勤めてた会社が大阪・南森町駅近くにあり、終業後、急いで地下鉄と徒歩で鶴橋のワンルームマンションに戻ってテレビ中継を見た。途中、マンションのすぐそばのローソンで弁当とチューハイを購入した。

5畳程度のフローリングに玄関とミニキッチン、手作りのベットが部屋の半分を占めるようなねぐら。日中は陽の光も部屋の中に入ってこない。

平日は先輩の残業に付き合って、遅くまで会社にいて、そのまま飲みに行くことが多く、帰宅はいつも終電。19時過ぎにマンションにいることはあまりなかった。

一人暮らしは学生時代から8年目となり、その気楽さからか、一人以外ではもう暮らせないような気がしていた。

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VHSビデオが一体となった14型テレビのスイッチを入れる。「セレス小林対アレクサンドル・ムニョス」のWBA世界スーパーフライ級タイトルマッチに間に合ったようだ。

現役の日本人世界チャンピオンということで、セレス小林は知っていた。黒星スタートの会社員ボクサーで雑草、地味な印象が拭えない。ドローだったマルコム・ツニャカオ戦は見たけど、根性ボクシングで華麗なボクシングではない。

一方のムニョスは21戦全勝なんと全てKO勝ちと言う驚異的レコード。ベネズエラから来た、世界ランキング1位の指名挑戦者。

これはセレスは絶体絶命だろう。一体、何ラウンドまで持つのだろうと、間接照明だけを点けた薄暗い部屋で缶チューハイを飲みながら試合中継に集中した。

ムニョスのパンチは重そうで、どんどん手が出る。セレスは序盤うまく対応できているように見えたが、2回にカウンターでダウンを取られる。

その後、再三倒されながらも、驚異的な精神力で9回まで打ち合ったが、ついにはセレスは力尽きてKO負け。試合途中で、学生時代からの友人に携帯からメッセージを送る。「ものすごい試合やな!見てるか」

画面ではムニョスの腰にチャンピオンベルトが撒かれていた。「感動したわ。実家で親父も観てたけど、親父もセレスはめっちゃ根性あるわって褒めてた、と言ってたわ。おれも頑張るわ」と、大阪から、和歌山の実家に戻ってカメラマン助手をしながら、公務員受験の勉強をしていた友人はコメントした。

それが彼が逝く前に、やり取りしたメールのひとつだった。

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その次に彼に送ったメールは、約1か月後、「どう、元気?」、彼の状況もよく知らずに、自身の会社員の仕事について愚痴り、会社を辞めて学生時代のような放浪の旅に出たいなあと、いうようなやりとりをしてた。

そのやり取りの終わり、「海外で働いて、頑張っているやつがおんねん。お前も定職がないなら、カメラ持って行って、何か月かいけるんじゃない、ちょっと気分転換してみたら?」という私の呼びかけに彼はこう返した。

「オレはそういう踏み出せる人間ちゃう。人間には二種類いて、踏み出せる人間と、やりたいと思いながらやれない人間。オレはやれないほうの種類のほうの人間だから、ほっといてくれ」。それになんと返したかは覚えていない。これが本当の彼との最後のメールになった。

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最近、「セレス対ムニョス」をYOUTUBEで見返して、驚いたことがあった。当時、テレビの生中継で、解説者のコメントなどにも影響されながら受けた試合の印象は、圧倒的な強さを誇る敵(ムニョス)にセレスは必死にあらがって散った。というものだった。

しかし、もう一度見た映像では、打たれながらもセレスはムニョスを少しづつ削っていて、結果は分かっていながら「このまま行けば、セレスは逆転して勝つんじゃないか」という展開に見えた。

圧倒的強さを誇る対戦者に挑み「負けて称賛される」ような試合もあるが、このセレス対ムニョス戦は、「セレスの負けっぷり」でなく、最後まで勝ちを掴みにいったセレスの姿が称賛に値するように思えた。

それを20年前にテレビ生中継で見て、一瞬でも「オレ、頑張る」と思った彼が、そう私にメールを打った彼が、まだ生きているままの世界を想像した。

その世界では、2002年3月9日、セレス小林は大逆転のノックアウト勝利で、ムニョスを下して世界タイトル2度目の防衛を果たしていた。

和歌山の湾岸道路を彼の運転するジムニーが走り、20年前と同じく「和歌山の田舎までわざわざ来てくれて有難う。誰もこんなとこまでけえへんわ。パチンコ勝ったから焼肉奢ったるわ」と、道路沿いの焼肉店で、夕暮れの海を見ながら彼にご馳走になる。まずは私は生ビール、彼は運転だからソーダで乾杯する。

当時、和歌山に仕事で出張に行った際に一緒に焼肉を食べた時とは、異なった、20年歳を重ねたなりの話題で盛り上がるのだろう。あの頃、色々大変だったけど、あのセレスの戦いぶりには勇気づけられたなあとか。


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