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学生時代

画塾に行き始めてから、たくさん絵を描いた。夢中になれるものが見つかった気がしてとても嬉しかった。描けば描くほど、もっとうまく描けるようになりたいと思うようになっていった。
 色々な課題があったが、自分は特に鉛筆デッサンが得意で、色彩構成がイマイチだった。

 目の前のものをそっくりに描き写すのはわりと得意なのだが、ゼロからアイデアを練って、配色を考えて塗っていく作業は今でも苦手だ。妻の方がその点は得意で、いつも助けられている。
 お互いに、得意な点がクロスしているので、2人で描くと弱点が補完し合えて丁度いい。

 当時、僕の第一志望は京都市立芸大、略して“京芸”だったのだが、京芸は国公立の美大ということもあって、勉強もそれなりに出来ないと入れなかった。結論から言うと、僕は京都造形大(現:京都芸術大学)略して“京造”に合格した。その時は悔しさもあったが、正直なところ、当時の京芸は山奥にあり、校舎も古く、京造の方が新しくて雰囲気がいいと思った。昔はそれこそ、西の京芸、東の藝大と言われ、第一志望に受かるまで何浪もする人がいたらしいが、僕はそこまでして行きたいとは思わなかった。

 大学時代の自分は、水を得た魚のように、次々と新しいことに挑戦し、のびのびと絵を描いた。油絵科に在籍し、ツナギを着て、絵の具まみれになりながら絵を描いた。当時、『ハチミツとクローバー』いわゆるハチクロが映画化され、話題になっていた。美大は本当に映画さながら、ユニークな人が多かった。僕ももれなくその中の一人として、ザ、美大生に染まっていった。
 僕の学生時代のヒーローは奈良美智さんだった。当時の美大の油絵科の人なら、大体奈良さんか、村上さん(村上隆)に憧れて、自分もあんな風になりたいと思って作品を作っていた人は多かったと思う。他にも挙げ出せばキリがないほど、リスペクトするアーティストがいて、月に1回ぐらいのペースで、作風がコロコロと変わっていった。(ひどい時は週替わり、いや、日替わりの時もあった。)そうして、知らず知らずのうちに、僕は現代アートの世界にどっぷり浸かっていった。
 もう夢中も夢中。思い出すだけで恥ずかしいほど夢中だった。でもそれが楽しかった。青春の絶頂期だった。

 気が付けば僕は京造の博士課程まで進学していた。妻と知り合ったのもこの頃だ。僕は博士2年で中退するまで京造にいたので、計8年も大学に居たことになる。8年と言えば、小学校より長い訳だから、相当の期間いたことになるのだが、僕にとってはちょうどいいくらいだった。
 やればやるほど、次の課題が出てきて、それをクリアすると、また次の課題が現れるといった感じで、やってもやっても終わりがなかったからだ。探究心というものが芽生えたのもこの頃だ。

 余談だが、親と、特に祖母には本当に感謝している。祖母が学費の殆どを賄ってくれていたからだ。そもそも祖母がいなければ、美大に行くことも出来なかった。いつか祖母についても書けたらと思う。とてもパワフルでユニークな人だった。そして、旅行が好きな人で、色々な場所に連れて行ってくれた。祖母は僕が博士課程に進学する前に亡くなってしまったが、僕に遺産を残してくれた。僕はそのお金で博士課程に通った。だから祖母がいなければ、今の自分はない。

 話は戻るが、なぜ、そんなに長く大学に居たかと言うと、現代アートは、もともと西欧で生まれ、海の向こうからやってきた文化なので、日本人の僕がその細部まで理解するのに、かなりの時間を要したのである。
 そして、それを知った上で、一体どのような作品を作っていくかということが、なかなか決められなかった。周りはどんどん自分の武器を持って卒業していくが、自分はいつまでも迷っていて、方向性が定まらなかった。
 自分はうさぎとかめの物語の“かめ”だ。だから、どれだけ時間がかかっても最後に巻き返せばいいと、いつも自分に言い聞かせていた。
 しかし、大学に長くいたおかげで、西欧美術史をとことん学ぶことが出来たのはよかった。

 西欧美術の歴史はとても分厚いもので、沢山のアーティストがこれまでに、たくさんの試みを繰り返し、その積み重ねの上に、今日の美術がある。それらのアート作品は、決して解答ではなく、むしろ、問いかけである。
 様々なアーティストが、それぞれの時代の中で、こうじゃない?ああじゃない?と言いながら、様々な形で己の思想を世界に向けて発信してきた。それを後世の人々が、これって確かに正しかったかもしれない。これこそ真のアートだ!などと何度も議論を重ねてきた結果、残ってきたものが美術館に保存されている。その中で淘汰されたものもたくさんある。
 ぼくらは、それらの作品を観ることで、その時代の空気感や、アーティスト達の葛藤を、作品を通して知ることができる。たとえ作者が不在でも、作品は、言わば実体を持った歴史の膨大なアーカイブなのである。つまり、作品を所有するということは、歴史の一部を所有するということなのである。
 そして、これが絶対の正解と言うものはない。それは時代によって変わっていくからだ。そこが面白い。
 若い頃は自分が絶対的な正義であるかのように錯覚して、作品を作っていくが、歴史を学べば、正しいことなど初めから無かったことに気付く。達観し過ぎているかもしれないが、どうせ何が正しいかなんて時代によって変わっていくのだから、深刻に考えても仕方がない。それに、僕が思い付く程度のことは大既やり尽くされているので、新しいことをやろうとしても無駄だ。そもそも人と違うことをやろうという考え自体も間違っている。僕が操作できるのは、自分の意識ぐらいで、あとはだいたい成り行きだ。本当にそんなものだ。美術史を学ぶと、つくづくそう思う。

 歴史の変遷は、はちゃめちゃで奇想天外で、理解不能だ。先人たちの取り組みを見ていると、マジメに取り組むのがバカらしくなるぐらいユーモアに富んでいて、クレイジーだ。
 うまく説明できないが、美術史を学んだおかげで、自分は大勢の中のひとりなんだということを知った。そして、余計なことに囚われなくなった。
 僕は僕のできることをやる。ただそれだけだ。

 博士2回の時に、転機がやってきた。それは、東京藝大の先生に、「俺の研究室に来ないか?」と誘われたことだ。その先生は、知る人ぞ知る画家で、とてもいい絵を描く人だった。僕は当然その先生を前から知っていたし、何度か会う内に、とても惹かれていたので、そんな人からわざわざ誘われて、断る理由は無かった。それに、ちょうどその時、僕は論文作成に迫られていて、お手上げ状態だったこともあり、二つ返事で応じた。
 論文のことでお世話になった先生に、そのことを告げると、「論文なんてものは書きたい時に書けばいいんです。」と背中を押してくれた。
 あんなかっこいい大人に自分はなれるだろうか。いや、なれないだろう。卒業後の今になって思うと、京造には、本当にかっこいい大人が沢山いた。いい大学だったと思う。
 藝大の試験を受けに行くと、面接で、「お前はもう学生の域は抜けているから、俺の助手になってくれ。」と言われた。
ジョシュ?
 僕はいきなりの言葉に戸惑ったが、それが学生ではなく、職員側だと分かった時、呆気にとられた。面接後、先輩に電話すると、先輩はとても驚いていた。聞けば、藝大の助手になれば、自分の制作部屋がもらえて、働きながら制作ができるという話だった。正に青天の霹靂だった。
 しかし、このことがキッカケで、僕はとても大変な目に合う。しかし、当時の自分はそのことを知る由もなかった。

odango dango 竹沢 佑真

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