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50代からのグレーゾーン(第12回)

丁度、バブル時代の好景気のおかげで、父は商売を成功させることが出来ていた。
バブルの崩壊とともに、本当の利口さを持たない父は全てを無くすことになるのだが、当時は、子供たちを私学に通わせるだけの財力があったおかげで、私も電車に乗って小学校に行くことになった。
恵まれた環境のはずだった。親がいつもお金の心配をしているのを見ずに育ったこと、足りないものが苦労せず手に入ることが、満たされていると定義すれば。
しかし、「世間知らず」な環境で「お嬢様」と揶揄されて育つことに、私は疑問を持たずにはいられなかった。

今のように、教育員会やPTAが子供を守ってくれるわけでもなく、先生の方に多くの権限があった時代である。ましてや、私学となると「嫌なら退学していただいていいですよ」という態度であったように思う。
子供の多い時代でもあった。私学校は、苦心せずとも生徒が集まった。
私学のお嬢様とは名ばかりで、実態は悲惨なものであった。

体罰という名の暴力、戒めという名の辱めや暴言が日常的に行われていた。
男性教諭は、生徒が鼻血が出るほど殴り、水溜まりに放り込み、難病を抱えており、走ると必ず転ぶ生徒に「ちゃんと走れ!」と怒鳴った。

私の担任は、初老の女性であった。
顔は鬼瓦のようにゴツゴツとし、気弱な生徒を毎日虐めた。
その女教師が最も嫌いな女子生徒は、毎日廊下に立たされて、授業を受けることが出来なかった。
次に嫌いな女子生徒は、授業中にトイレに行きたいと勇気を出して申し出たところ、「授業中にトイレに行くなんて!ちゃんと始業前にトイレに行っておきなさい。そんな子はうちの生徒では無い」と、皆の前で制服を脱がされた。
おデブで色黒な男子生徒には、女教師自ら「ブーちゃん」とあだ名をつけ、皆がそう呼んでいた。
ブーちゃんは、一部の生徒からもいじめを受けていた。

逆に、利口でぶりっ子な女子や、頭が良くユーモアのある男子生徒は、女教師から目に見えて依怙贔屓されていた。

私自身もしばしば標的になったが、虐められている子らを見ること、そして、自分がされるかもしれない恐怖のため、週明けなどは、たまに学校に行けなかった。
コタツに体温計を当て、ほど良い微熱を出して、数回休んだ。母は、私の額に手を当て、首を傾げていた。

私が受けた辱めは、やはり私に、いじめたくなる要素があったではないかと思わせるものであった。

次回に続く…

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