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50代からのグレーゾーン(第10回)

私の覚えてる母は、きちんと家事を行い、子供の参観などにも出席し、真面目な専業主婦であった。公的な人付き合いが苦手で、PTAの役員などは、頑なに断っていた。気の合う友人は何人かいるようだったが、グループではしゃぐような性格ではなかった。
人目を気にし、指摘や否定されることを恐れるあまり、人といると気疲れしてしまうのではないかと推測する。

その母とは、じゃれ合うようなスキンシップをした記憶がなく、淡白な愛情だと感じていた。
それは、母の性質であり、悪気も罪もない。
それでも寂しいと感じるのは、私が何かに依存していなければ不安になる性質だからかもしれないと、この歳になってやっとわかった気がする。

子供のすることを褒めることのあまり無い母は、お客様がいる時に駄々を捏ねたり余計な発言をすると私を強く叱った。
よく言われた言葉で印象的なのは、「わがまま」「自意識過剰」「細かいことを気にしすぎ」「被害妄想」「甘えている」「あなたの悩みは小さい」等々。客観的に見た私のイメージはそうなのだと、そしてそれは変えなければいけない性格なのだという思いを抱えて育った。
1度、大変怒った母が、納戸に私を閉じ込めたこともあったし、外に立たされたこともあった。
昔は、スパルタ教育という言葉もあったくらい、子供を厳しく育てる時代であり、母も例外ではなかったのだろう。

それでも私は母が好きだった。母に嫌われるのが怖かった。
やっと年長の1年間だけ幼稚園に行くことになった私は、母から離れるのが怖くて、行きたくないと泣いた。そんな私を、母は、近所の幼稚園まで引き摺って連れて行き、先生に無理矢理引き渡した。
私の幼稚園の記憶はほとんど無いが、毎日母に早く会いたくて堪えていたこと。友達ができなかったこと。黒いストッキングを履いた怖い先生が担任だったことを、うっすら覚えている。

母のストーカーのような私が幼稚園に行くのを、もしかしたら母は待ちわびていたのかもしれない。
小学校に上がってからも、学校を休んだ日は、母が沈んでいたように感じた。私がリビングに行くと、部屋で寝ているように言われた。
煩わしいとははっきり言わないが、子育てを心から楽しむ人ではなかった。

そしてそれは、私も同じであった。

次回に続く・・・

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