見出し画像

50代からのグレーゾーン(第20回)

無事、最低な成績ながら高校に内部進学できた私は、中身は何も変わらないまま…いや、身の程知らずさがエスカレートしていたかもしれない。

元来じっとしているのが苦手な私は、小学校時代から椅子の後脚だけ着地させ、ゆらゆらしているタイプであった。貧乏ゆすりなども酷かった。
今は、儀式や美容院が苦手で、髪は自分で切って染めているが、儀式は仕方がない。
ムズムズしながら終わるのを待っている。
逆に、何かに集中すると、集中しすぎて電車に乗れなかったり降りられなかったりする。

しかも、運動神経はなく、音痴でもあり、服のセンスもなく、得意とするものがないことは今も変わらない。

中高がエスカレーターなのは、部活も変わらなかった。テニス部は、申し出ない限りそのまま継続となっていた。
私は、硬式テニス部に入部したくて、軟式テニス部の顧問に退部を申し出た。
他にも同じように硬式に行きたいと申し出る同級生がいたが、皆顧問に引き止められていた。
けれども、私は、顧問の「そうか」の3文字で全てが終わった。
元より、顧問からパワハラのような罵倒を受けたこともあり、さすがに鈍感な私も、自分が不要なのだと悟った。そこで、硬式テニス部に行く気持ちも折れてしまい、その後は部活をしなかったように記憶している。

友人関係は、中学と変わらなかった。
新しく居場所を求めては、その友だちとギクシャクし、また別の居場所を求めた。

ひとつ違ったのは、各教科ほぼ50点以下…0点も取ったことのある私だが、国語の点数だけは100点に近く、作文も1度誉められた学年があった。
私は、それだけで有頂天になってしまった。
それまで持ち合わせていなかった「自信」には繋がったように思う。まさに、成功体験である。
大いに勘違いをした私は、学園祭や体育祭でクラスの皆で身に付ける小物を作るなど、積極的に活動するようになった。
しかし、私のやり方は、拘りが強く無駄な労力と時間がかかるものであり、その割に目立たない(別になくてもそれほど問題にはならない)ものであった。手伝ってくれた数名の親切なクラスメイトには、申し訳なかったなぁと今更のように思い出す。

そして1番の勘違いが、女優業に憧れたことである。アイドルから女優に興味は変われど、日常から飛び出して違う人間になりたい願望は変わっていなかった。
今なら、ドラマや映画にはカット割りがあり、決して別人になれるものでもなく、役者さんが行っているのは「演じる」という技術なのだとわかるが、子供の私は、役者が、様々な人生を演じることができる夢のような仕事だと、非常に執着した。

親を説得し、高校2年の頃から養成所に入ったのだが、メインがお笑い芸人という会社の俳優コースという、取ってつけたようなところに行ってしまった。
そこは大人の世界で、おかしな人がたくさんおり、講師ももちろん役者なので、高校とは別世界であった。それなりに、自分の居場所だと感じることが出来た。
私はその世界にのめり込み、その中の数名で構成された鼓笛隊の様なバンドに入れてもらった。
遅くまで衣装を作ったり、小さな舞台に立ったり、それはそれは楽しい時間であった。
だが、全てにおいて音痴な私は、芝居となると全く落ちこぼれで、バンドのなかでも若かったせいもあり、くっつき虫のようであった。

自分から掴みに行かない私は、運もチャンスも誰かが与えてくれるものと信じて疑わなかったが、何の魅力もない私をピックアップしてくれる人などいるはずもないと、年をとってからやっとわかった始末である。

我が子は皆、自分の身の丈を知り、馬鹿げた夢を見ず、着実に進んでいる。ある意味、立派であり、私とは正反対なのは、時代の変化だけが理由であろうか。

努力もしないまま、都会に行けば何かあるかもしれないと、高校を卒業した私は、何の根拠もないまま上京した。
親は、大学に行くことを上京の条件とした。
今現在、貧乏な私には、それがどれだけ贅沢なことかよく分かるが、当時の私は当たり前のようにその条件を飲み、推薦で何とか私立の四年制大学に入学した。

私は、両立というものができない。
何か一つしかできない。
大学に行ったことが良かったのか悪かったのか、
私は、アルバイトをするただの大学生になってしまった。
役者になるにはどうすれば良いのかも何も分からなかった。

そして、アルバイト先でストーカーというものに遭遇することになる。
当時はストーカーという言葉もなかったが…

次回に続く・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?