見出し画像

50代からのグレーゾーン(第13回)

鬼瓦風の初老の女教師は、なにしろ罰を与えるのが好きであった。

私はASDの傾向があると言われたが、ADHDも混じっているのではないかと自身で思っている。
実際、混合の人も多いようで、目に見えない障害だけに線引きが難しい。
人に自分の症状を話すと「私もそうだよ〜」と、同情なのか同調なのか分からない返事をする人も少なくなく、話す気が失せる。
私が感じ続けた違和感や、いじめやパワハラなどを受けたことがあるならともかく、上手く世を渡ってこられたなら、たとえ障害があってもかまわないと考えている。

実際、成功を収めている障害者はたくさんおられ、もちろん努力と苦労の賜物であるが、逆へ逆へと堕ちる人もたくさんいるのである。
それは、本人のせいではなく、持って生まれた思考の癖や環境やご縁が関わることであると言われるが、自身が苦しいことに変わりはなく、堕ちた自己肯定感は再起が難しいのである。
なぜならそれは、無意識だから。意識的に変えられるものではないから。

幼少期に出会った環境やご縁が、私の場合、母であり、なぜか私に意地悪をする近所の子どもたちであり、幼稚園の先生であり、そして小学校の女教師やクラスメイトであった。

学校のクラス分けは1度しかなく、1~3年までは先生もクラスメイトも変わらない。
地獄の3年間であった。

幼稚園の先生が特に怖かった思い出は、私が呼ばれているのに気づかず応じなかったため叱られたこと。集中力がなく、いつもぼーっとしていたように思う。そして常に受け身だった。

小学校に行っても私は相変わらずだった。
それ故か、忘れ物をしない日はなかった。
女教師は、忘れ物に非常に厳しく対処する人であり、様々な罰を与えられた。

電車に乗って家に忘れ物を取りに帰ることは何度もあった。
他には「忘れ物をする子は教育し直しだ」と、下級生のクラスで一日中授業を受けさせられたり、教室の後ろや前で正座、廊下に立つ、皆の前で忘れた理由を言うなど…
そして、忘れ物をした次の日は、日の丸弁当を持たされた。私学は給食がなく、お弁当を親が作るのだが、私はほぼ日の丸弁当であった。
母は、お弁当にこっそり塩をかけるなどしてくれたが、前日に忘れ物がないか一緒に確認するなどの苦労は背負わなかった。
もちろん、先生には文句1つ言わなかった。

お弁当にまつわるエピソードは他にもある。
母がシュガーバターパンをサンドイッチと一緒に入れたことがあった。
クラスメイトが先生に、私が菓子パンを持ってきていると密告した。
私は、即刻、家に帰るよう命じられた。
母が愛情を込めて作ってくれたシュガーバターパンは、私にとっても母にとってもおやつという認識がなく、軽食だと思っていた。
この時も母は、何も言わなかった。

次回に続く・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?