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サーフブンガクカマクラ巡礼① 藤沢~鵠沼

夜行バスが京都駅八条口を出発したのは23:59で、王子に別れを告げるシンデレラのような切迫感を覚える時間設定だった。魔法が解けたら事故るのではないかという心配をよそに、翌朝7時前には池袋に無事に到着した。一緒に降りた乗客の足取りを追ってJR池袋駅に向かった。

湘南新宿ラインは混雑していた。
うっかりしていて吊革を掴むことができずに、網棚の鉄の棒に仕方なくつかまっていた。ドアが開いたときには「あのあたりに身体を落ち着かせよう」と計画的に乗車するのに、なんかいつの間にか吊革がなくなっている。
ボーッとしてると叱られてしまう。

しかし案外、網棚の鉄の棒はつかまり心地が良いのだ。
それも生き方の縮図のようだった。流れに身を任せて選んだ肢は、自分をまあまあ幸福にしてくれている。大きく飛び出すこともないけれど、自分の臆病な心の安寧を守る範囲で、スパイスを効かせてくれる。

車窓の風景が大都会から郊外に変わったあたりでイヤホンを耳に突っ込んだ。ASIAN KUNG-FU GENERATION の「サーフブンガクカマクラ」の一曲目を流し始めた。

アルバムのなかでは妙に威勢のいい、ぺかぺかしたギターが鳴っている。とげとげした音はちょっと苛々した通勤客の忙しい足取りを、上の方でなる飾りのギターは白く光るでかい駅の箱を表しているかのように思えた。
意識は線路の先の都心の方を向いていて、江ノ電からJRに乗り換えた主人公は三番線から、のどかな町並みに手を振っているのだろうか。

高いビル 愛は? 僕はほらなんにもないや
社会人 ライナー 三番線のホームから 今 手を振るよ
ASIAN KUNG-FU GENERATION「藤沢ルーザー」

いつもは軽音楽部のボックスの後ろの隅でライブを聴いていて、パートも三種の神器(gt. ba. dr.)ではないキーボードであり、大勢の人に囲まれたら話題に困ってしまうような自分である。
警戒心と恐怖心は一人前で、そんな臆病な心をおして鎌倉および東京まで一人で出てきたのは、ほかならぬ、好きなバンドの好きなアルバムの舞台を味わうためである。
ゴッチの感受性をそのまま味わうことはできないけれど、ミーハー心とフォロワーシップには自信がある。

江ノ電の1日乗り放題券のりおりくんを買い求めて、遠足の小学生たちと電車を待った。ホームは丸い窓がキュートで、小さい(三番線はない)ながらも朗らかな印象をもたらしていた。JRとは雰囲気が異なる。到着した可愛らしい短い電車に乗り込んだ。

しばらくゆけば住宅地の中に列車は入っていった。耳元の音楽も、テンポはほぐれて南国風にズンチャズンチャし始めたが、攻撃力の高いため息みたいなギターが鳴っている。ガチャガチャキーキーしている。

ああ リアルになんもねえ
そうそう 夢ってやつもねえ
ああ 一発で世界を塗り替えるような
ASIAN KUNG-FU GENERATION「鵠沼サーフ」

冒頭からして、膝から力が抜けるような歌詞である。
でもマジでリアルになんもねえのかもしれない。

実家か別荘か民宿か分からないが宅地に家が並んでいて、その狭い隙間を電車が縫って行くエリアには、生活の匂いと普通さが蔓延っている。安心するけど物足りない匂いである。イベント疲れという言葉もあるように、安息の地となる住宅地はなんもねえほうが安らげる。
しかし、まちも、長所をアピールして集客商売繁盛しなければならない時代だ。それには宅地はあまりにもニュートラルである。
考えてみてほしい。
都会の様相を呈している藤沢と、湘南の暖かなワイルドさを醸し出す海沿いに挟まれている。
桜井翔と松本潤に挟まれているようなものである(そうなのだ)。
自分なら勝ち目がなくてキツすぎる。

漂う生活感が自分を去勢しているような気がして、
何者かになりたがるおれたちは家を飛び出して、
少年Aから英雄と言わずとも名の有る者に、
ビッグウェーブに乗らなければならない気がしてくる。

就活でもそんなことを言った気がする。

やっぱり生きていくならなにかを成し遂げたいし。
でも自分を量り売りしてすり減らないように暮らしてゆきたいし。
波を乗りこなすためのサーフボードも選べていないし。
ウーウー。

(つづく)

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