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生誕200年スメタナを聴こう!vol.1

チェコを代表する国民楽派の作曲家スメタナ。今年の生誕200年を機に代表曲「わが祖国(Má Vlast)」を聴こう!スメタナは知らなくても「モルダウ」なら誰もが聴いたことがあるはず。そうそう、中学校の教科書に出てきた!合唱で歌った!


ヴルタヴァに架かるカレル橋

わが祖国とヴルタヴァ(モルダウ)

モルダウとはチェコの首都プラハの中心地を流れる川で、チェコ語では「ヴルタヴァ」。「モルダウ」はドイツ語での名称です。チェコ南西部のホルニー・ヴルタヴィッツェ辺りが源流となり、北部のメルニークでドイツに流れるラベ川(エルベ川)に合流しハンブルクまで繋がっています。プラハ城の麓を歴史的な景色とともにゆったりと流れるヴルタヴァ川の姿や、上流の荒々しい姿まで「モルダウ」1曲の中で表現されていてヴルタヴァの流れが目の前に浮かんできます。因みにヴルタヴァ川は全長430kmだそうです。

「モルダウ」は、祖国を愛してやまなかったスメタナの「わが祖国」という6曲からなる連作交響詩の中の第2曲目です。

I. ヴィシェフラド(高い城)
II. ヴルタヴァ(モルダウ)
III. シャールカ
IV. ボヘミアの森と草原から
V. ターボル
VI. ブラニーク

いずれもチェコに所縁のある伝説や自然、歴史にちなんで作曲されました。
チェコ旅行の前に思いをはせながら聴いてみたり、旅行の思い出とともに聴いてみたり、スメタナの時代やチェコの自然を感じられるかもしれません。

1845年頃のヴルタヴァの畔から望むカレル橋やプラハ城、人々の生活の様子。

スメタナについて

スメタナ(1824年3月2日生、1884年5月12日没)が生まれた時代のチェコはハプスブルグ君主のオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていました。公用語はドイツ語でした。チェコ語は禁止されていたのでスメタナもドイツ語しか話せず、成人してからチェコ語を学びました。スメタナのドイツ語名はフリードリヒ・スメタナ(Friedrich Smetana)で、チェコ語だとベドジヒ・スメタナ(Bedřich Smetana)となります。

余談ですがチェコ語の「ř」は日本語で表せる文字はなく、発音から一番近いカタカナであえて書くと「ジ」になります。中学校の教科書などに書かれている「ベドルジハ」ではとてもチェコでは通じません。ドヴォルザークも本当の発音からあえてカタカナにすると「ドヴォジャーク」です。すみません、横道にそれました…

当時のチェコでは音楽家などの芸術家たちも、国家としての独立願望やチェコ民族主義の強まりから、愛国心を自身の作品で表現していました。そのような民族主義的な音楽を作っていた作曲家の流れを国民楽派を言います。

スメタナは、ボヘミアとモラビアの境界地(プラハの東側)にあるリトミシュルで、音楽が趣味のビール醸造業の父の家に生まれ、幼いころからヴァイオリンやピアノの才を現し、若き頃は特にショパン弾きピアニストとして知られていました。スメタナの曲のピアノパートにショパンの技法が感じられるのは納得です。生涯を書き出すと長くなってしまうので省きますが、音楽の素地はやはりピアノやヴァイオリン、作曲に没頭する幼少期、青年期だったようです。

当時のヨーロッパの情勢が強く影響していますが、チェコの人々は今でも愛国心が強く、老若男女問わず故郷をとても大切にしています。スメタナやドヴォルザークのメロディが私たち日本人の心に染み入るのも、ノスタルジックな故郷への想いに通じるからではないでしょうか。

スメタナの曲には、「わが祖国」「わが生涯より」「わが故郷より」など「わが~」が多く、チェコ語によるオペラや、チェコ組曲、チェコ舞曲集といった民族性のある作品が多くみられます。

ということで、スメタナを聴こう!vol.1は「わが祖国」です。

小林研一郎とチェコ・フィルハーモニー管弦楽団

ハンガリーでは国民的大人気である小林研一郎がチェコ・フィルデビューを飾ったのが1995年2月でした。曲はシベリウスの交響曲第2番とフィンランディア。コンサートに先駆けたリハーサルやセッション録音の時からオケのメンバーの心をすっかり掴み、コンサートでは聴衆からのなり止まぬ拍手で大成功を収めました。

まだヴァーツラフ・ノイマン(1920~1995年)が存命で、このコンサートはチェコ・フィルの今後の運命にかかわる、と引退後あまり外出をしたがらなかったけれど駆け付けてくれました。パイプオルガンの下の席、指揮者の顔が見える座席で聴いてくれ、終わりごろには目元から一筋の涙が光っていました。終演後に楽屋で「ドブジェ、ドブジェ(good, good) 」と言いながら、熱く小林研一郎と握手していたのが印象的です。その後小林研一郎はチェコ・フィルの首席客演指揮者に就任し多くの名演を残しています。

因みにノイマンは、1968年プラハの春にソヴィエトが介入し当時の首席指揮者アンチェルがカナダに亡命した時、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のポストを辞任し、祖国プラハに戻りチェコ・フィルに就任し、1989年ビロード革命まで率いていました。下町口調の兄貴肌の人で、晩年には「ジェデチェク(おじいちゃん)」と誰からも愛された指揮者でした。コンサート活動引退後に私たちはマーラーやドヴォルザークの録音をしてきましたが、1995年9月2日に亡くなりました。奇しくもマーラー交響曲第9番の録音の直後でした。

小林研一郎とわが祖国

この小林研一郎&チェコ・フィルの「わが祖国」は1997年6月9~12日に、チェコ・フィルの本拠地ルドルフィヌム(芸術家の家)でセッション録音されました。チェコ・フィルの伝統を築いてきた名手達もまだ活躍しており、いぶし銀の分厚い響きと、演歌のような歌心満載の、これぞザ・チェコ・フィルという充実した濃いサウンド!ホルンのティルシャル、トランペットのケイマル、フルートのヴァーレク等々、耳を傾けてみてください。日本にはこのチェコ・フィルサウンドに魅せられた根強いファンが多くいます。ヨーロッパの真ん中の面積的には小さな国にこんなに濃い伝統と個性があることで、ヨーロッパの歴史や民族を知り得ることができます。

小林研一郎にとってドヴォルザークやスメタナは外すことのできない不動のレパートリー。チェコ・フィルにとってドヴォルザークやスメタナは目を瞑っても弾けるほど、ドヴォルザークが指揮をしていた時代から演奏してきた「我がレパートリー」。そんな指揮台に外国人指揮者が立つのは相当なプレッシャーがあるはずです。でも小林研一郎はこの録音でオケのメンバーの心をつかみ、コンサートでは絶賛されました。

毎年行われる「プラハの春音楽祭」はスメタナの命日5月12日に基本的にチェコ・フィルが「わが祖国」を演奏して幕を開けます。2002年は欧州以外の指揮者では初となる小林研一郎が抜擢されました。

チェコ・フィルのライブラリーにある歴代の指揮者たちが使用してきた「我が祖国」のスコア。
ヴルタヴァの表紙
ターリヒやアンチェルの書き込みがたくさんあり、伝統はこのように伝わっていると実感できる。

「わが祖国」CDラインナップ

EXTONから発売されている「わが祖国(全曲)」は3種類、いずれも小林研一郎指揮によるものです。

1997年6月にプラハで録音されたロングセラーのアルバムです(キャニオンクラシック原盤をリマスタリング)。チェコの人たちにとって国家以上に愛着をもつこの曲は、チェコ・フィルのチェコ人以外の指揮者とのレコーディングはされていませんでした。全編にわたってのびやかでスケールの大きな指揮をみせ、チェコ・フィルも共感豊かに応えています。

このアルバムをきっかけに、小林研一郎は2002年「プラハの春音楽祭」で欧州人以外初めて、オープニングで同曲を演奏することとなりました。

2009年、24年ぶりに東京都交響楽団の指揮台に戻ってきた記念碑的なライヴ録音。

小林研一郎が「音楽生活自身最高のコンサート」とまで言う2013年4月に行われた読響とのライヴ音源。