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ぬか漬けにしたピーターパンからは日本の匂いがするだろうか?(発酵したファンタジーは日本の美的感覚といえる程度に馴染んだだろうか)

落合陽一です.チープなファンタジー感がダサいと僕は昔思ってたんだけど,5年くらい前からむしろかっこいいと思って使っているという話.

虐殺されたモーツァルトというよりはぬか漬けになったピーターパンの話.

キャラクターものってダサいと考えるか,かっこいいと考えるかはキャラクターの象徴性に依存するゲームだと思っているんだけど,それは例えばミッキーマウスは普遍性に近づいているか,とか考えることに近い.ジャスティンビーバーはコカコーラを超えるか? ティファニーで朝食を食べることとフルメタルジャケットのラストシーン,ベトナム戦争でミッキーマウスマーチを歌うことはどちらも映画のトピックだが,そこに変なキャラクター性やブランド性を感じない程度に定着した後は,ティファニーとミッキーマウスのブランドはどちらも普遍性を持ちつつあるのかもしれない.

それでいうと,アンディウォーホールのキャンベルスープもマリリンモンローもこの議論を経てきての作品であるから,ポップアイコンを利用したかっこよさの話はもう成立している.そこではなく,今回話したいのは,商業的で手垢のついたポップカルチャーが変遷して,日本でテレビ的にもムード的にも不思議な着地をした,大衆向けコンテンツと思われているものを「あえて」使って作った作品はクールなんじゃないか?というあたりである.それはSEKAI NO OWARIなのかもしれないしジャニーズなのかもしれないしハローキティなのかもしれないし,クレヨンしんちゃんなのかもしれなければ,ファイナルファンタジーのキーチェーンやカナヘイスタンプや綾波レイなのかもしれない.つまりポップアイコンを通り過ぎてしまったイメージとポップアイコンの距離の話でもある.テレビバラエティ的な通過儀礼を日本で避け続けること自体がかっこ悪いみたいな話なのかもしれないとも思っていたり.つまり文脈への違和感の話かもしれない.日本の文化的な本流って,いつも言われてることだと思うけど,結局様式側と大衆側の折衷にしかないのかもしれないんじゃない? みたいな,そんな感覚にも通底する.

まぁ斜に構えた人のいう「内容のなさ」は「斜に構えた自身のコンテクストのなさ」とも繋がっているから,なかなかわからないのだろうとも思ったり.

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落合陽一が「今」考えていることや「今」見ているものを生の言葉と写真で伝えていくことを第一に考えています.「書籍や他のメディアで伝えきれないものを届けたい」という思いを持って落合陽一が一人で頑張って撮って書いています.マガジン開始から4年以上経ち,購読すると読める過去記事も1200本を越え(1記事あたり3円以下とお得です),マガジンの内容も充実してきました.

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