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子どもの成長を眺めていると人生が一度きりしかないことにそこそこの寂しさを感じることができるのは素晴らしい

小さい頃の死の恐怖は,一度死んでしまったらもう宇宙が終わるまでに二度と意識を持つことがない,ということをイメージすると漂う仄暗さへの恐怖だった.そんな落合陽一です.今日はエッセイみの強い話.

弊息子は3歳になってしばらく経って,「大きくなったねえ」と言ったら,「もっと大きくなったらもっといろんなとこに届くかなぁ」と言われた.僕が言っているのは年齢や発達を含めた何かであって,単なる君のサイズの問題ではないのだけれど,時間の変化を感傷に変えない年頃の子どもの感性は美しい.不可逆性を意識せず歩むことができる美を携えている.

そういえば自分の身体が大きくなることを喜ぶことのできる歳だったのは何年前だっただろうということを思い出していた.「大きくなることはあっても小さくなることはないんだねえ」と呟きつつ,「なにいってんだよぉ」と子どもに突っ込まれながら,過ごしてきた日々を思い出していた.僕はそんなに記憶力が良くないから,はっきり思い出せるのは写真の中や動画くらいなもので,忙しい日々の中で過ぎ去っていく時間に成長していって消えてしまう子どもの姿もなかなかに思い出せないなぁ,と思いながら過ぎた時間の不可逆性の中で足踏みして感傷に浸るのは大人の悪いクセだ.そうだ,今よりもっと小さい頃の君の姿を思い出せるのはデジタルデータを眺めているときだけだ.たくさん動画も写真も撮ったけれど,その姿に触れることができるのは今の時空間だけなのだ.感傷の味わい深さをときに感じられるのが,成長に伴う失われつつある姿を知覚する瞬間だ.

あるとき弊息子から電話がかかってきて,いつまで経ってもうんうんいうばかりで喋らないから妻が「パパ忙しいから伝えたいことがあるなら早く喋って」というと弊息子は「伝えたいことがあるんじゃなくてお喋りしたいの」と言う.なるほど,大きくなることを身体性で捉えている3歳児は,意味のない時間を過ごす意味については自覚があるらしい.それを楽しむ心も持ち合わせているのは余裕なのか直感なのか.

小さい頃の僕は一人,自分の部屋で死ぬのが怖いと思いながら黙って悩む子どもだった.母が人生はあっという間だというたび,自分の人生もあっという間に過ぎ去るのだろうと考えることをトリガーに,「暗闇で一生目覚めない自分」をイメージしては恐怖から逃れられないでいた.意識がいくら叫んでも永久に戻れない闇の中で宇宙が終わるまで一人っきりという現実に耐えられないだろうなぁと考えては布団の中に蹲るのが小学校低学年の自分の死に対する思考の限界だった.無をイメージすることができなかったからだ.一度死んだら宇宙が終わっても死んだっきりっていう壮大な時間への恐怖かもしれない.小さい頃の無限に退屈な時間の1つは国際線の飛行機の窓から見える代わり映えのない景色を眺めながら十数時間を耐えることだったのだけれど,飛行機の中で見る夢は無限の時間の中で暗闇に沈む自分の姿だったことを覚えている.

そんな考え方が思春期になると,怖がるという機能が失われるから怖くなくなるのだろう,ということが具体的にイメージできるようになっていく.麻酔を受けたり,意識が朦朧とする体験を繰り返すと,自分の意識が脳の機能だという身体的な知覚を通じて,怖がったり自分の存在を知覚したりする機能が失われることがわかっていく.きっと死ぬときは死ぬことをイメージすることも失われてしまうんだろうなぁ,という感覚が直感で理解できる.

その後は豊かな人生とはなんだろうと考えるようにもなった.不可逆な時間やあらゆる価値へのそのものへの本質的な諦念を抱えながら,豊かさをどうやって考えていくんだろう.あらゆる全てに意味がないからアツくなるし,楽しめるのだろう,それもまたすぐ失われてしまうけれど,「失いうること」自体が「失われない」までは価値と無価値の間で,豊かさを探るこの問答を続けることができる.

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落合陽一が「今」考えていることや「今」見ているものを生の言葉と写真で伝えていくことを第一に考えています.「書籍や他のメディアで伝えきれないものを届けたい」という思いを持って落合陽一が一人で頑張って撮って書いています.マガジン開始から2年以上経ち,購読すると読める過去記事も800本を越え(1記事あたり5円以下とお得です),マガジンの内容も充実してきました.

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