見出し画像

「社会批評性を持つことのダサさ」に息ができなくなって,「疲弊で眼に映るすべてのものに興味がなくなってから」がモノづくりの時間の始まりだと思い始めた話

落合陽一です.最初に断っておくと,社会批評性のある作品,鑑賞者としての僕は好きです.でも自分で作ろうと思わなくなったのはいつだろう,とか,疲弊ドリブンで作品作り出したのいつだろうなぁとか思ったので文章を書き出した本日3本目の長文note.

Uberみたいないわゆるギグエコノミーで働く人たちのポートレートを集めて,アマゾンの倉庫で働く人々のDNAサンプルして,ギグエコノミーの低賃金さAIシステムと代替可能な人の関係性を語るために彼らの肖像GAN生成画像を作って,人と機械が融合したディストピア不完全なイメージのためにDNAデータからシミュレーションした生物機械の融合した姿の悲哀についてバイオ系立体造形で語る現代アートみたいなものを作ることで,資本家が牛耳るカリフォルニアスタートアップのお祭り騒ぎの中の人間性の危険な状態をAIやバイオアートの最新テクノロジーを用いて表現する…,作家は今までAIとバイオ社会の中で使い捨てにされる労働の中にある現代社会の歪みをテーマにしてきた…

みたいなことをやりだしたら,ダサいじゃない? と思うようになったのはきっと大学院生の頃だと思う.だから自分でそういうことしようとすると何らかのストッパーがかかってしまう.この自己嫌悪は何なんだろう.

表現を別にしてその五秒で書けそうなコンテクストで飯を食うんだろう? 結局コンテクストを料理してその感情の動きでお金を稼ぐんだろう? という声が「本気なら今すぐアーティストやめて法律作るか改善システムを作るなり行動に起こせ,表現が社会の中で行動を起こすきっかけになるとかいう前にやれ」と脳内でこだまし,実効性のあるやり方を探る… と思い出したら,「本気で課題に取り組む訳ではなくてギャラリーか作品空間かSNSに切り取られるだけで終わりそうなソーシャルアクション風アート」僕自身は全く興味がなくなってしまった.生活のための社会性の匂いがするからかもしれない.それで飯を食いつつ,実効でなく表現だという.ソーシャルアクションにつながる? じゃぁなんでそれ売ってんの? 共感性を装わないのに共感させようとする吐き気がするあざとさかもしれない,オシャレさともいう.

そういうトピックを思い付いたら作品を作るよりは会社でシステムを作るか,研究して現場に行くか,表現で手伝うのは社会性より巻き込む人の数を増やすことをお手伝いすることであって,直接的な社会性に言い訳することはやめようと思った.本気ってなによ? と言われれば絶望と消耗に至る現場性の獲得かもしれない,創造性を失う程度の疲労と消耗.持続可能とはまたちょっと違う.じゃぁその本気は持続可能か? と言われれば,属人化をパージした先が持続可能な気もする.つまり作家性と分離しないと厳しい.

まぁ人それぞれ考え方はたくさん,ただ僕の考え方も書いておこうと思って書き始めた今日のnote.最後まで読まないとなかなか伝わらないだろうと思う.

社会批評性の強さってやつは,青春でパンクバンドにハマる時期もあれば辞める時期もあるし,大人になって聴きたくなることもある,そういうジャンルだってことなんだろう.たまに見ると涙することもあるんだから.そういう意味では好きだけど,ただそこを自分で求めすぎると自己嫌悪で吐き気が止まらない.

ここから先は

2,469字 / 1画像
落合陽一が「今」考えていることや「今」見ているものを生の言葉と写真で伝えていくことを第一に考えています.「書籍や他のメディアで伝えきれないものを届けたい」という思いを持って落合陽一が一人で頑張って撮って書いています.マガジン開始から2年以上経ち,購読すると読める過去記事も800本を越え(1記事あたり5円以下とお得です),マガジンの内容も充実してきました.

落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…

いつも応援してくださる皆様に落合陽一は支えられています.本当にありがとうございます.