「何言っているか分からない」と言われるたびに,「この人は今まで人生で分からないことは『何言っているか分からない』と避けてきたんだな,聞きもせず調べもしないまま死ぬんだろう」と思っている
昔,どこかのインタビューで『「ググレカス」はすでに通用しなくなった.ググると悪化するから共にググるのが吉』だと答えた.テレカンが普通になって日常会話でもググりながら喋る人が増えたことは相互理解においてもいい習慣だと思う.たまに悪化している気もしなくはない.
「何言っているか分からない」と言われるたびに,「この人は今まで人生で分からないことは『何言っているか分からない』と避けてきたんだな,『聞きもせず調べもしないまま死ぬんだろう』と思っている
表題のこれ.SNS上のフィルターバブルのせいでより顕著になっているような気もする.知らなくていいか,分からなくていいか,ならネタにしてやるというヤツが多い.そういう人々と対話するコストが高い.そもそも「そういった人々の属する常識の内側」でしか対話できないとするならば,集団が分断され常識が乱立している現在,「その集団の共通言語」を聞き出すことから始めなくてはならない.これはかなり困難で多様性が高い.最大公約数は見つけづらい.
ただ,この問題について考えるとき,幸いなことに人の行動範囲は限られるから,物理空間では目障りになることもなければ生活区間が交わることもない.なるほどフィクションの過激な登場人物と違ってデスノートにその人たちの名前を全員書かなくても自分にとって邪魔にならないのがこの世界の素晴らしいところだ.ただ静かに僕のインターネットからいなくなっていただければそれで良い.ブロックして通報して削除,いつもの「雑草を抜く作業」と一緒だ.ひょっとしたら手入れをきちんとすればインターネットは棲み分けることができるかもしれない.万人が万人に話しかけられる構造自体に問題があるのかもしれないし,発信の前提知識についての配慮・考慮は受信側でなされるべきだろう.
前提知識の設定は色々ある,「個人発信」・「地上波」・「国プロ」・「YouTube」・「論文」・「大学の講義」・「ネット放送」・「展覧会」など様々な範囲があるけれど,インターネット上の個人発信でどうこう言われるのもおかしなものだ.それぞれ何の発信なのかを考えて受け取って欲しい.それも前述のタイプの人々には厳しいのかもしれない.それはそれで対話する責任を持たないときに対話する必要はない.逆に対話する責任があるとき,その際に個人として説明する責任を持つことは稀だと思う.社会機能としての個人として説明する責任がある場所とはどこだろうか.それは翻訳者の機能を持ち得ない場所に説明責任が付随することがあり得るか?
近頃,カタカナが多いと言われたので,カタカナを使わないで取材や対談で答える実験などをして楽しんでいたが,より難解になった.つまりカタカナが第一想起されると言うことはその単語に対応する日本語の変換候補の方が共通認識が得られておらず,意味が一義に定まりづらいということなのだろう.それはそれで,言いたい言葉の方を中心に置いて喋るというのが大切なのかもしれない.壮大な茶番を演じているようなものだ.
今日は今日で色々考えながら動いていたものの,文章を書くと考えが整理されて良い.身体を動かすことと思考を回すことの両輪をしながら,本を片手に調べ続ける生活が好きだ.盆休みに再び対峙する老子と荘子と大拙と一休.まじで荘子と一休が何言っているか分からん.そうだこれは僕がその前提知識を不勉強だからだ.死者に解説を望むことは難しい.ただ自分の不勉強を嘆くことしかできない.
そういえば,前回もそんなことを考えていたけれど,今回はもっと本質的な多層化する文脈での相互理解の話のような気がする.
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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