「耳触りのいい言葉を並べる綺麗事聖人」と「信頼されるために着飾る信頼増幅野郎」が「モテるためのテクニックみたい大全」みたいで大嫌いです
メディアで人の話を聞くたびに思う話.それがお家芸や伝統芸能ならまだ愛せるのだけれど,私の人間性がここにあります、というようなプレイスタイルを見ると,そのテクニック感がある時点で人間性はそこにはないだろう笑わせるなよ,と思ってしまう(自覚的なのか無自覚的なのか).
追記:耳障りと耳触りのタイポがあったので直しました
今日クラファンの締め切りとかあったので久々にtwitterに浮上して選挙の感じを体感していたのだけどこの感じである.
詐欺師はスーツを着てネクタイを締めて近づいてきて耳触りのいい言葉を吐いて帰っていくのだ.なぜだろうか.信頼を増幅する必要があるからだ.「信じられる必要があるからそのためになんらかの手段を講じる」というのは場合によっては有用だが,知的生産性とは拗れの位置にあるように感じる.内容が評価されるべきところに下駄を履かせる必要を感じない.
宮田さんは置いておいて別に彼に特にコメントはない(いつも服装が愉しいしいい人だと思う).そこはおいておいて上のような感じのツイートをしていたのだけれど,モブや大衆にどう受けるかとか,なるべくウケないように(消費対象ではないように)していくのは大切なことだと思うし意識してはならないものの一つだと思っている.モテるためのテクニックを使う,みたいなときを意識的にやっていく場所はあってもいいが,ポピュリズム狙いのモテるためのテクニックみたいなものが見え隠れすると急に蕁麻疹が出るタイプの人間であるから各局の選挙特番とか見ていると色々感じ入るところがある.
僕は少数の理解者がいればいい,大衆にはわかってもらえる日が死んだ後にでもくれば少し嬉しい,そんなことを思っている.今日はそんな話を.
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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