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落合陽一 × 日本フィルハーモニー交響楽団プロジェクトのステートメントを集めてみる(Vol.1からVol.8まで)

さて、インターネットの海は広いよ.

耳で聴かない音楽会 落合陽一×日本フィル プロジェクト VOL.1

音楽体験の共感覚化.オーケストラは映像装置の発明以前の方法によって演奏されています.その後の人類は光をコントロールしたり,振動や触覚を与えたり,耳で感じる空気振動以外での体験もオーケストレイトすることができるようになってきました.標準化によって切り捨てられた部分に感動が宿ることもあります.それを感じ取るには,共感覚化した音楽構造が必要だと考えています.オーケストラジャケットもライブにある言語化できない要素を作ろうとして生まれましたし,ここで見せるプロトタイプは,これから始まる多くの共感覚的なプロジェクトの序曲に見えます.

落合陽一、耳で聴かない音楽会

変態する音楽会 落合陽一×日本フィル プロジェクト VOL.2

次行ってみよう.実は変態する音楽会には落合的なステートメントがない。

テクノロジーで生まれ変わるオーケストラと音楽

「変態する音楽会 -Transforming Orchestra - 」

オーケストラが誕生して約300年。その間、写真、映像といったメディアが生み出され、進化してきましたが、指揮者と楽器奏者で構成されるオーケストラの構造はずっと変わっていません。しかし、このコンサートでは、「映像装置」を楽器奏者として加え、オーケストラという編成をトランスフォーム(=変態)します。この楽器としての映像装置のスコア(楽譜)を新たに書き起こすのが落合陽一です。コンサートでは、曲目ごとにオーケストラが様々に変態していきます。これまでの「音楽」に映像が従う、または「映像」に音楽を合わせる主従の関係をDISRUPTION® (創造的破壊)して、映像も音も、並列の関係でオーケストラとして再構築します。「現代の魔法使い」落合陽一が、テクノロジーによってオーケストラを変え、耳、目だけでなく全身で体感する新たな「体験」を提供します。

https://japanphil.or.jp/concert/20180827

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.3 第1夜《耳で聴かない音楽会2019》

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.3 第2夜《交錯する音楽会》

ここからステートメントが出てくる。(表現への特徴的なプロセスが増してくる) 2019年。

オーケストラの持つ質量について考えていた.

デジタルのもたらす原始的な共感覚化,感覚の変換,音と光と身体性のシナスタジア.

オーケストラが輸入されて90余年,標準化と工業化の末に到来したデジタルの自然は質量を伴う日本の原風景とどうやって融合し,音の持つ感覚の軛と帳をトランスフォームするのか.耳だけでなく,目だけでもない,デジタルは時空間の情報を他の感覚へと変換可能にする.そんな時代にオーケストラを構成する身体と一回生の織りなす集中力を形容する言葉はなんだろうか.それは祈りに近しいのかもしれない.

多様化する感覚とデジタルの持つ原点回帰の中にアナログへの憧憬を探している.日本の風景の中にも日本的美的感覚に接続されたオーケストラやデジタルの風景が存在するはずだ.

一昨年からの日本フィルとの取り組みの中でデジタルが拡張するオーケストラの感覚的な軛と帳からの突破を身体性に求めて探索してきた.その共感覚的な風景を日本の原風景に接続する祈りの場を作りたい.

プラスチック・鉄・農村・自然・工業・鉄道・近代インフラ・電気・マスメディア,石の文化と隔絶された島国に見える美意識はデジタルと融合することでことなる美意識を作り出すのではないだろうか.そういったコンテクストを更新することで音から始まる共感覚の憧憬をデジタルを用いて描き出す.

落合陽一

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.4 《__する音楽会》

計算機時代の赤子のような,分断されたオーケストラと新しいデジタルの地平
Reborn to Digital Nature


オーケストラが分断される.今までと同じ形を作れなくなる.メロディも,ハーモニーも,体験も,感覚も,分断された世界で今まで通りに味わうには難しい.

距離の制約を電子技術を経由して取り戻そうという動きがある.多くの試みが流刑状態にある人々を癒すために,空間を超えて行われている.不意に現れたデジタルの自然への橋梁を前にして,世界の手触りを失ってしまっていることに気がつく.世界が今や質量への憧憬の中にあり,その憧憬がもはや郷愁へと変わりつつある.この現状に我々は満足していない.

我々はこの時空間的な分断に対して,実験と共有の連続こそがこの新しいデジタルの地平に生まれ直した時代にとりうる,手立てだと真摯に考える.我々は身体性を切り離したデジタルの地平で,オーケストラを聴くこと,見ること,共有することについて,実はまだ何も知らないことを,毎日明らかにしていくのだ.デジタルの地平から,改めてこの世界の触覚や調和を取り戻す作業は,世界を赤子が認識していく姿に似ている,初めてバイオリンを習ったときのあの窮屈さや,初めてピアノを褒められたあの奥ゆかしさに似ている.

繋がること,隣人を愛すること,夢を抱くこと,希望を持つこと,様々な大切さがある.我々はその中で,世界に生まれ落ちた赤子が,世界を触りながら愛していくように,オーケストラの原義に立ち戻りながら,デジタルの触覚や共有空間に対する想いを結実させていく.今我々が目指すのは,実験と共有の繰り返しからたどり着くはずの,名前のまだない,幼子の初めての発表会だ.

双生する音楽会、落合陽一

だんだんとトーンが仕上がってきている。2020年。

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.5《醸化する音楽会》

このプロジェクトを通じて,オーケストラの持つ質量について考え続けて早5回目となる.
デジタルのもたらす新しい自然,それによる原始的な共感覚化,感覚の変換,音と光と身体性のシナスタジア.
耳だけでない可能性をいつも最高のチームとともに探している.

本年度コロナ禍によってそれぞれの地域に分断された身体性のことを考えていた.
分断によって気がついたもの.それは我々が土着の文化の中で継承されたDNAのようなものであり,
それぞれの文化圏における土着の発酵性から生まれる新しい可能性である.
今我々の周囲にあるもの,そして今我々から距離があるものについて考えたい.

東洋的美的感覚と西洋的美的感覚の対比構造,その中にある発酵の意味性の違いに目を向け,
成長の限界を超えて,持続可能性との対話に入った今,かつて高度経済成長期にあった科学技術と人間性の調和の夢を反芻する.
電子的に記録された1964年の鐘の響きはこの時代にどう鳴り響くのだろうか.
5回目のオーケストラ,土着性・民藝性.この時代に醞醸し出される新しい自然の風景を,
新しい感覚とともに切り拓き,深化して行きたい.

醸化する音楽会、落合陽一

2021年。キーワードは揃ってきた感じがある。

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.6《遍在する音楽会》

音と光の共感覚を探ることは時間と空間の中に縁起を探していくことに似ている.日本フィルハーモニー交響楽団との協働を続けて数年.《耳で聴かない音楽会》®を始めとして,耳だけでない音楽を探し続けてきた.マルセルデュシャンが網膜のための絵画を抜け出て,思索探求と哲学の自由を芸術にもたらしたように,我々も耳だけの音楽から離れたとき,オーケストラの構成要素となるものが何かという問いを持ち続ける試みを続けてきた.この古典的とも言える問いをオーケストラと共に実直に探求する活動を続けてきた.当時代性を持ってこの問題にどういう答えを出すことができるのか,時代と社会と共に歩んできた.初回から4分33秒というジョンケージの作品を扱ってきたものの,メインで彼の作品を扱うのは初めての試みとなる.いよいよ時は満ちたというべきか,それとも時間芸術を受容する我々そのものが変容しつつあるというべきだろうか.今回の演出の過程ではいつものような時間と空間ではなく,時間なき音楽と向かい合うことになった.

ナムジュンパイクが1980年に述べた「定在する遊牧民」のコンセプトやポストコロナの祝祭・身体性を込めて昨年の醸化する音楽会を開催した.定在する遊牧民とはデジタル技術によって人の知的活動は遍在し,あたかも遊牧民のように世界中に出現しながら,物質的な身体は定在しているという状態を指す.デジタル技術による定在遊牧性と現代社会についての思考を続けているうちにこの変化は,狩猟採集社会・農耕社会・定在遊牧社会と続くような千年レベルの大きな変化なのではないかと考えるようになった.ゆえに,大きなパラダイムの変遷として農耕社会以前について,身体性について,規範や倫理について,そして森林や炭素循環について思考を続けていた.

森林に多く存在するきのこはネットワークを張り巡らせる生き物である.ジョンケージは4分33秒:無音の音楽のことを「きのこの音楽」と呼んだが,耳もなく目もないきのこにとっての音楽とはなんだろうか.その補助線として考えられるのは仏教的世界感覚であると思う.ケージの作風は鈴木大拙の禅の講義を受ける以前と以後で大きく変化したことが知られている.空海風にいえば山も水も木々も空も鳥も我々も全てのものは変化し,そして繋がっている.自分が今の時代に補足をするならばそれは波動も物質もデジタルも計算機も含めた大きな流れを体得することかもしれない.熟考を続けるうちに,それは物質的,触覚的なグルーヴ,そして森林生態系にとっての音楽そのものではないだろうかと考える機会が増えた.この森林生態系としてのグルーヴを人に置き換えてみたらどうなるだろう.社会で生まれるさまざまな音,ネットワーク,社会的生物としてのヒト,そして音でも光でもない味覚や触覚や嗅覚的なグルーヴ.それは奇しくもコロナ禍で失ったコンヴィヴィアルな体験の構成要素そのものではないだろうか.

森と共にコンヴィヴィアルな要素と共に生き,非言語的脱論理的な体感知を希求する上で定在遊牧的な縄文社会のことをリサーチするに至った.縄文人は近年の遺伝学的調査によれば,東アジアの人々から派生し,琉球人・アイヌ人・縄文人と三つに分かれた遺伝的特性を持つ人々であったとされている.サステナブルな社会を思考する上で1万年以上にわたる持続可能社会,そして戦乱なき比較的平和な安寧を営んだ上記の人々の文化や生活を見逃すわけにはいかない.土器や土偶をめぐる調査やアイヌ音楽を伝承する人々との協働など多くの事例を通じて,大いなる自然から何かを紡ぎ,育て,それを還し,また受け継ぐことの重要性を感じている.集団における未来の情報を価値とし,時間や金銭という概念を導入すると失われてしまう持続可能性があるのだろう.例えるなら茶道の茶禅一味・即今のように,過去現在未来という時間の流れの中に身を置くというよりは,今それそのものへ着目し,時間という概念を超えた空間芸術としての音楽への回帰と理解が,現在向かいつつあるポストインターネットの定在遊牧社会と共鳴しうると考えた.

我々は今空間的に遍在し,資本や時の流れとはまた違った価値観を揺籃しつつもあり,物質的身体的なものへの飢えから回復しつつある中で,平和を希求し,分断を乗り越えるための何かを,文化や歴史の営みの中から紡ぎだそうとしている.ケージの時代に描けなかったキノコの音楽・そしてキノコの楽器とは何か.そんなことを思いながらこの空間に生きる遍在する身体の共感に想いをはせてほしい.

遍在する音楽会

揃ってきた。2022年。


落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.7《帰納する音楽会》

帰納する音楽会
Recursive Orchestra

人間を含むすべての生命の連鎖は,広大なデジタルの世界へとその活動領域を広げつつある.それは生命が新たな探索領域と揺籠を獲得し,肉体的な生死を超えてさらに洗練されはじめたことを意味する.この現代の生命の多彩な模様が動的に立ち上がる中で,我々は今,生命の歴史の重要な瞬間に立ち,計算機技術が世界および時空間にとらわれない自然の理解を再形成しつつある中にいる.今年,日本フィルハーモニー交響楽団との共演を通じて,私,落合陽一は長年根底に抱き,考え続けてきた理念,計算機自然(デジタルネイチャー)に回帰し,そのビジョンをより磨き輝かせながら,喜びを共有することを目指したい.
2015年に名付けた計算機自然(デジタルネイチャー)は,物理的な自然界と生命活動の探索によって生まれた非物質の領域≒デジタル領域が絶えず融合し,その探索や可能性が物理的な限界に囚われることなく進展を続けることを示している.これは自然に対し,我々人間の創造力と我々が可能性の境界を再定義する共同能力へ自然の展開を意味している.この新しい世界の森羅万象に対する理解が拡大するにつれて,それは一滴から大河全体に広がるように,端点が瞬時に人間的経験のあらゆる側面に与える変革的な影響が生み出される可能性に満ち溢れている.これは創発の喜びに満ち溢れた世界だ.
我々は今,計算機自然(デジタルネイチャー)の進化の加速を目の当たりにしている.現在,その影響は人間存在のすべての隅々に浸透しつつあり,日常生活から専門技能に至るまでの随所で顕著な力となっている.人工知能と人間知能の動的な創発と高速な展開がもたらす成果は,芸術や文学から時間や空間の理解まで,留まるところを知らず,このいわば生命の慣性のような力は,我々の時空間的な世界認識を非連続にし,昨日と今日の価値観の間に跳躍を齎し,今日と明日の間に新しい世界を生み出しつつある.
この世界の変容を受け,この計算機自然(デジタルネイチャー)が落合陽一のバックグラウンドの一つである,メディアアートに関連する多くの側面を探求する旅を始めた.ここで便宜的に述べればメディアアート1の時代は終わりつつあり,メディアアート2を迎えつつある––ピクセルや数学的進行だけでなく,森羅万象を形成するすべてが他のすべてに変換可能な,未踏領域に我々の技術は踏み込んでいる.今この世界は全てのものが物化し,万物は跳躍を重ね,全ての言葉は一つのフレーズから文脈を補って文に変化し,その呪文は絵画や映像を生み出し,絵画は音楽に変わり,音楽は彫刻に,彫刻は文学に変容する.このデジタルネイチャーの進化に導かれた滑らかで流動的な舞踏は,生命の全ての連鎖の末端に展開され,プログラムで定義されたピクセルの硬直的な数学的定義を超えて,言語の曖昧さや抽象性や普遍性をも加味した文学的な領域に足を踏み入れ始めた.メディアアートのみならず全ての芸術表現にとっても歴史的な転換点を迎えている.
変容する森羅万象が常態化した,新世界の入口に立つ今,私たちはどのようにしてこの急速に変化する状況を人類が航行するのかという問いに立ち向かわなければなりません.計算機技術と自然の結合から新しい言葉が生まれるのか?計算機自然(デジタルネイチャー)の理解を深めながら,我々の文化的要素はどのように進化するのかについての展開を占う時期に来ている.
これらの問いに答えるため,我々は計算機自然以後の新しいバナキュラーの芸術的探索,人類の経験を形成する豊かな文化の土壌の探索に着手する.これは今までの民藝的展開や縄文的展開,文献の調査のみならず,民族的調査も含む活動への展開を意味する.今回は沖縄でのフィールドワークを通じて,琉球音楽の魅惑的な旋律の中に現在の変容する自然観の中に新しい民俗と伝統を見出そうとしている.歴史的な通俗的な人々の生み出してきた響きを通じて,計算機自然(デジタルネイチャー)と人が共に織りなす音楽の可能性を探している.
日々未踏の領域は伸長し,未開な領域はその深度を深めている.この計算機自然への道程に乗り出す中で,計算機自然(デジタルネイチャー)の心臓部にある世界の再魔術化と新しい自然の驚異を受け入れ,その喜びに浸ることが日々を生きる上での活力に変わる.生命の慣性のような力が,古代の伝統と技術の無限の可能性に導く.
最後に,落合陽一と日本フィルハーモニー交響楽団との共演は,これまでもこれからも計算機自然(デジタルネイチャー)が生み出す,人間の可能性の展開を称えるものであり,芸術・技術・自然が融合するものである.その喜びを共有したい.

帰納する音楽会、落合陽一

そしてデジタルネイチャーに戻ってきた2023年。

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.8《変幻する音楽会》

長らく続けてきた落合陽一×日本フィルハーモニー交響楽団のプロジェクトを振り返っていた。我々がテーマにしてきたことは「耳だけで聞かない」こと、オーケストラの形態が「変態」すること、西洋と東洋、デジタルとアナログ、過去と未来、あらゆる二項対立が「交錯」すること、五感を通じたあらゆるカルチャーが「醸化」し発酵すること、コンサートホールの中と外、演奏と休止の如何に囚われず音楽があらゆるところに「遍在」すること、そして計算する万物が「帰納」しうる文化を探索すること。そういったテーマの全ては個別に存在することはなく、我々の文化を形作る全てのベクトルはつながっており、またこれからも繋がっていくのだろう。

オーケストラの奏でる楽曲はときに一神教的でもあり、多神教的でもある。禅的でもあれば、無宗教的でもあり、あるときは超現実を奏で、あるときは祭りと俗謡を奏でてきた。楽曲構成や演出の構成の中で、たびたびジョンケージの引用やナムジュンパイクの引用を行ってきた。そのプロセスの中で社会彫刻的なアプローチを行うこともあれば、プルリバーサルで多元的な価値観も取り入れつつ縄文からコンテンポラリーまで多くの要素が垣根なく混ざり合ってきた。その様子は「定在遊牧的」でもあり、「テクノ民藝的」でもあった。「事事無碍」でもあり、「物化する計算機自然の祝祭」でもあった。
このプロジェクトの標榜する「オーケストラの人の意地」は人間中心の輝きに限らない、美しい星々の光の一つだ。人間の意地が恒星の燦々たる輝きを与え、計算機自然的な現在において日本で奏でるオーケストラの意味を風土性と土着性の中に、西洋音階と東洋音階、静寂とノイズの間に探してきた。今年のテーマは祭りであり神事であり、農耕と祝祭からインスパイアされた遍在する神々と人の垣根ない変容である。「今ここ」は、すぐに「遠くどこか」になるとともに、「今ここ」でもあり続ける。風は笛、水は太鼓、言葉は変換とジャンプを生み、その言語行為の主体はすでに人間のみの手を離れている。計算機自然の祝祭はどのような交錯の響きを生み出すのだろうか。

農耕と祝祭、酒を酌み交わし、音楽に身を委ねるたびに、現実と非現実の境界は揺らぎ、幻想と妄想が入り混じる。それは、東洋と西洋の文化が融合する不思議な宴のようでもある。しかし、この曖昧さ、不安定さこそが、世界の本質なのかもしれない。私たちは、秩序という一時の幻想の中で生きているが、その根底には常に渾沌が潜んでいる。だからこそ、時には自由に混じり合い、溶け合う場を必要としている。この自由は西洋から輸入された自由ではない。万感が自然であるということであり、この自然も明治以降に作られた里山像や自由像の中で遊ぶという意味でもない。

私たちの行動や判断は、音楽に影響を与え、同時に音楽から影響を受ける。計算する主体であると同時に、計算される客体でもあるのだ。その主体と客体が高速に入れ替わる計算機自然の世界像は今醸成され続けている。この自然の遷移は、人間と機械、自然と技術の境界を曖昧にする。祭りの音色は、この新しい世界観を象徴している。笛の音は風となり、太鼓の響きは雨となる。自然と人間、幻想と現実、東洋と西洋、そしてアナログとデジタルが不安定のまま融合する。そこに描き出される姿は私たちの魂が、世界の計算に参加し、響き合い、世界像の不安定さを照らし出す瞬間だ。そこでは、秩序と無秩序、偶然と必然が入り混じっている。始まりと終わりの境界すら意識することがなく進んでいく、その祝祭とともに漂う喜びを抱いて、音楽会に参加してくだされば僥倖である。

変幻する音楽会、落合陽一

さて、本年である。


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