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梅田丸ビルの「くるり」体験、もしくは「明るめの平岡公威」について

くるりというバンドを知ったのは、学校帰りに梅田丸ビルの黄色いレコード屋に少なくとも週4で通っていた頃のことだから、もう20年以上前になる。

隔月発行のフリーペーパーの後半ページ(あるいは、前半だったかもしれない)、デビュー直後の新進気鋭バンド、くるりのインタビューが数ページにわたって掲載されていた(あるいは、1ページだけだったかもしれない)。首元がよれよれのTシャツと帽子、たしかベルボトムみたいなジーパンを履いてメガネをかけた「岸田繁」は、関西の全予備校のあらゆるクラスに必ずひとりはいるようなごくごく普通の、いや究極に普通過ぎてむしろこんな子おらんやろ、といった風貌で、くるりは端的に言うと冴えない泡沫バンドのひとつに見えた。

ただ不思議なことに、「岸田繁」の文字と写真を目にした瞬間から、わたしは彼を「ボーカルの人」でも「岸田」でも「繁君」でもなく、「キシダ君」という音で呼ぶと決めたのだった(関西弁なのでイントネーションは「キ(→)シ(→̚)ダ(↗)君(→)」)。

あろうことかキシダ君は、黄色いレコード屋の権威ある全国版フリーペーパーのインタビューで「とにかく毎日、自慰行為が止まらん」みたいなことを言っていて、あほか、と思った。あほやなこの人、と思ったけれど、デビューしたてやのにそういうこと言っていいんや、と、大学教師の親を持つ文学少女だったわたしは内心動揺し、腰を抜かし、腰を抜かしつつ、ある種のデジャヴに襲われた。

平岡公威やん。キシダ君、きみそれ、明るめの平岡公威やで。

くるりに関する高校時代のわたしの記憶はそこまでだ。

インタビューを読んだあと、しかしわたしはキシダ君の音楽を聴かなかった。四畳半の部屋のかびた畳の上の万年床のにおいがするような気がして、日清カップヌードルのにおいがするような気がして、何年も洗われたことのないタバコ臭いカーテンがかかったベランダから小さくまとまった京都の夕暮れを見つめる人生を強いられるような気がして、わたしはくるりを聴かなかった。

まとわりつく関西の空気から逃げたかった。

正解というものは、血染めの日曜日を高らかに歌い上げたり、名もなき道を探し求めたり、自由への疾走を気取ったり、そんな高みから眺める世界にこそあると信じていた。抽象化された普遍的な愛を語ることこそ「ロック」であり、私がこれから歩むべき道であると。

キシダ君に25年ぶりに再会したのは昨年である。一回り年下の上司が「くるりのこの曲がすきで」とYouTube動画のリンクを教えてくれた。「くるりを聴く20代が存在する」という事実に驚いた。

くるりを聴かなかったあいだ、わたしは東京で大学生になり、恋をして、サマソニに毎年通って恋に破れ、ジムに通い、また恋に落ちた。レッチリのライブにも行った、名古屋だった。フランスにも行った。高円寺の古着屋と荻窪の歯医者に通った。ゴダールの4時間くらいの映画を渋谷に観に行った。ちっとも意味がわからなかった。現代舞踏の公演を観に行った。渋谷だった。ちっとも意味がわからなかった。

文芸誌ばかり読んでいた。いつか載るんだ、東京會舘にも行くんだ、と思っていた。平野啓一郎、クライマックスのその空白はズルいだろ、その恍惚をどうつむぎだすかが語り手の仕事だろ、とジョニーウォーカーを舐めながらむやみに腹を立てていた。

大学を卒業して、ちょっとした文章を書く仕事に就き、結婚して母となって仕事はやめた。戦争が待っていた。血染めの日曜に勝ち取ったはずの自由も、名もなき道もジョシュアツリーも、ゴダールもピナ・バウシュも平野啓一郎も、何の役にも立たなかった。わたしが戦う相手は、洗い物のたまったシンクと、日清カップヌードルと、常に走り回る超偏食の息子と、1時間かけて作った、誰も食べない離乳食だった。ベランダから見える東京のはずれの小さくまとまった夕暮れと、閉塞感という名の日常だった。

音楽を聴くことはとっくにやめていた。

常に走り回る偏食の息子以下2名、つごう3名をとにかく何とか死なさずに就学年齢に至らしめ(「育て上げ」とは言いたくない、わたしは何もできなかった)、パートタイムで仕事を再開した矢先に、勤務先でくるりを聴く20代に邂逅した。

彼が教えてくれた動画のURLを開いた、あのキシダ君が、メガネの予備校生然としたあのキシダ君が、立派なおっさんになっていた。

キシダ君、おっさんやんか。わたしは内心動揺し腰を抜かし、腰を抜かしつつ、ああそうか、キシダ君も私も、あれから20なん年生きてきたんだ、と気づいた。気づいたとたん、涙が止まらなくなった。

「名も無き道」とか「自由」とか。高尚だけど手に負えない、意味のわからない何かを背伸びして掴もうとして掴めない無力感にむやみに崩れ落ちなくても、思い切り泣いたり笑ったり、ジンジャーエール買って飲んだりすればよかったんだ。小さくまとまった日常を小さくまとまって生きてもよかったんだ。同じことの繰り返しのような毎日に、ジンジャーエールこんな味だったっけな、と小さく不協和音を落としてよかったんだ。

20なん年ぶりのキシダ君は、圧倒的だった。

高円寺の四畳半のかびた畳の上の万年床や、日清カップヌードルや、荻窪のタバコ臭いカーテンや、わたしに叱られて泣く子供の顔や、時々笑い顔や、汚れた幼稚園の制服や、母であることに自信が持てずに涙が止まらない夜や。心の奥の黒い心や、わたしこれでよかったんか、と鳴りやまない自問や。そういった何やかんやを包むように、叫ぶでもなく高らかに歌い上げるでもなく、ただ淡々とポツポツと紡いでいく、つないでいくキシダ君。そうやってつないでくれたからこそ、わたしのポンコツな人生に少しでも価値があるかもしれないと気づくことができた優しい音が聴こえた。

20年遅れで、わたしはこれからキシダ君をなぞっていく。わたしの知らなかった、わたしが避けていた四畳半スケールの20年をなぞっていく。

もっともっと大きく広い世界にあこがれて叶わなかった人生を「負け」と呼ぶこともできるけれど、キシダ君の音に心揺さぶられることができるアンテナを手に入れたのなら、勝ち負けではなく、わたしはいま幸せなんだろう。

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さて、自分で張った伏線は回収しなくてはいけない。

文豪、三島由紀夫の本名は平岡公威という。ヒラオカキミタケ、と読む。病弱で頭のいい繊細な少年が自慰行為がやめられないことに悩み、自分だけが異常なのだ病気なのだと思いつめた暗い少年時代を過ごした、というエピソードをどこで読んだのかは忘れたが、25年前の若きキシダ君のインタビューを読んだとき、まっさきに思ったのは「明るいヒラオカキミタケやん」だった。

公威少年がキシダ君のようであったら、「毎日止まらんのですよ」と全国版フリーペーパーで言えるメンタルを持っていたならば、世界の何かが少しだけ変わったかもしれない、変わらなかったかもしれない。

変わらなかったかもしれないけれど、「平岡公威」というキーワードをわたしが勝手にキシダ君に付与した梅田丸ビルのあの日があったからこそ、偏屈な文学少女のわたしがキシダ君のことを25年間忘れきることができなかったのだとすれば、そこには何かしら意味があったのかもしれないし、そもそも意味なんてないのかもしれない。

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キシダ君のインタビューの話が、40年稼働しているわたしの脳みそのエンストによる記憶の捏造によるものではありませんように、と願いつつ。

読んでくださって、ありがとうございます。

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