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人間讃歌なんかじゃない〜キリエのうた感想〜

人間ってどうしてこんなに弱くて脆くて、それなのに生きていかなくてはいけないのだろう。家族を失い夢を失い罪を背負い、世界から弾き出されて目的もなく漂うだけの3人。生きていかなきゃいけない。希望のない平坦な世界でただ息をしていた彼らを繋げたのはキリエのうただった。あの映画の中で音楽だけが安らぎで希望だった。映画の最中ずっと拳を握りしめていたけれど、Kyrieの歌が流れるとフッと力が抜け、涙が溢れた。

夏彦と希/路花にもフォーカスは当たっていたが、やはりこの物語の中心は逸子と路花だろう。夢を失い、家族に絶望し、町を離れて東京に出てきたものの結局母親と同じように女を武器にすることでしか生きられなかった逸子。彼女にとってKyrieとの出会いは奇跡のようなものだったんだと思う。これまで生きるために彼女が男たちに差し出してきたものを考えると胸が苦しくなる。自分ではない何者かの姿でひとり東京の街を歩いている横顔に、切ない気持ちになる。
だから、再会した大好きな歌姫を輝かせるために奔走する日々は心から幸福だったんだよね。自分と同じようにいろんなものを失った女の子と重たい荷物を一緒に引きずりながら寄り添うように歩いた、ほんのひと時が2人にとって何より大切で私も大好きだった。2人だけにしか共有できない孤独と不安があった。イッコは新宿でKyrieの歌を聴けただろうか。最後のシーンを思うと胸が苦しくなる。上質な百合とはこれのことだ。

夏彦についても話しておこうと思う。彼もまた弱くてどうしようもない人だった。初めて希の家に行った際、路花の「異邦人」を聴いていたあのなんとも言えない表情が忘れられない。世間体、親の重圧、恋人を身籠らせてしまった責任、様々なものに押しつぶされそうだった彼は結局それを乗り越える機会すら与えられないまま何もかもを失ってしまった。希の形見である路花とも二度離されてしまう。
そんな彼が東京で路花と三度目の再会を果たしたとき、彼女を抱きしめて泣き崩れたシーンが印象的だった。「守れなかった」「許して」それは路花に向けた言葉でもあり、路花に瓜二つの希に向けた言葉とも取れる。キリエという言葉がキリスト教の「主よ」という意味を表すと知ったとき、このシーンは懺悔なのだと思った。これまでボソボソとしか話さなかった夏彦が初めて感情を露わにした瞬間だった。

松村北斗の演技は凄まじかった。人が泣き崩れるシーンなんてこれまで散々ドラマや映画、アニメで見てきたが、これほどリアルで感情を掻き立てられたのは初めてだった。ところで、現実世界で人が泣き崩れるところを見たことがあるだろうか? 私はない。それなのに「あ、人が泣きながら崩れていくのってこんな感じだわ」と思うような説得力が彼の演技にはあった。
真緒里の家のドアを開けて緊張混じりに説明をするときの声のすぼみ方、神社で希に言い寄られて戸惑うときの手のやり場のなさ、先述した小塚家での表情、ちょっとした仕草や反応が、私の隣にいる誰かを想起させるほどリアルだ。松村北斗が夏彦を演じているのではなく、夏彦が最初から松村北斗であったかのような印象を受ける。彼がこんなにすごい役者だとは知らなかった。
広瀬すずも衝撃的だった。特にどのシーンが浮かぶわけではないが、終始彼女のシーンで涙していた。真緒里と地続きだが異なる存在のイッコ、その絶妙な違いが胸にずしんと来た。ほーんとうに逸子さんのことも広瀬すずのことも大好きになってしまって、私は映画を見てからここ数日ずっと恋する乙女のような気持ちでいる。
そしてアイナ・ジ・エンド。彼女の歌声に全身が震えた。声が出せない彼女が歌っている間だけ心の内を露わにしていて、これはアイナでなければ表現しきれないと感じた。お芝居も初挑戦だとは思えないほど自然で苦しかった。

いろんなものを失った路花には歌だけがあった。歌で繋がった逸子と路花が肩を並べて夜道を歩く後ろ姿は世界から外れた2人だけの世界にいるようで、正直に言うと羨ましかった。そして歌を通してキリエはたくさんの人と繋がっていく。イッコは彼女に何を託したのだろう……キリエに歌があってよかった。けれども同時にイッコさんにだって何かが残っていて欲しかった。やっぱり空っぽみたいな彼女を抱きしめたい気持ちでいっぱいだ。

弱くて脆くて簡単に間違いも犯す人間を取り巻いているのは、冷淡で残酷な世界だ。生きていく価値があるのか時々わからなくなる。
「世界はどこにもないよ だけどいまここを歩くんだ
希望とか見当たらない だけどあなたがここにいるから」
そのほんの一瞬の美しさが忘れられなくて、それを求めて生きてしまう。路花も逸子も夏彦も、そして多分私たちも。ここから先の現実の話はまだ少し言葉にはできなそうで、そんな感情を掻き立てられてしまったこの映画を恨めしく思ったりもする。これは人間讃歌などというものではない。社会批判や啓蒙でもない。3時間だけ切り取られた世界を見つめて各々の抱いた感情と向き合う、なんとも異様な映画だ。明日私はどうやって生きていったらいいのだろう、なんて考えながら今日も頭の中で憐れみの讃歌をヘビロテしている。


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