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ぼーっとした祈りについての考察

「祈り」ってよくわかんない概念だなって思った。
いただきますとか神社のお参りとかで僕らは祈るわけだけど、これってどういうことなんだろうって素朴な疑問が出てきた。

「祈り」とは、通常、宗教的または精神的な行為であり、個人が神や高次の存在、または宇宙に対して願いや感謝を伝えるために行うものです。これには、特定の言葉を唱えること、心の中で思いを巡らせること、または儀式的な行動を伴うことが含まれることがあります。祈りは、様々な宗教や文化において異なる形をとり、個人的な信仰や精神性の表現の一部となっています。


まずChatGPTに「祈りって何?」と聞いたらこんな答えが返ってきた。
まぁ妥当というかそうだよなって思うような説明だ。
ただ僕は祈ろうとする時、何も対象を持たずに祈っている感覚になる時がある。
これは果たして祈っていることになるのだろうか。
「祈りに対象は必要なのか」とまた聞いてみた。

祈りに特定の対象が必要かどうかは、その人の信仰や宗教的背景、個人的な信念によって異なります。一部の宗教では、神や複数の神々、聖人など特定の神聖な存在に対して祈ります。しかし、神を信じない人や特定の宗教に属さない人でも、宇宙、自然、または自己の内面など、より広義の概念に対して祈ることがあります。

祈りの本質は、内面的な思考や感情の表現であり、それには必ずしも特定の対象が必要とは限りません。重要なのは、その人にとって意味のある、心からの願いや感謝を伝えることです。

なるほど。
祈りの本質は内面的な思考や感情の表現であって、特定の対象の有無は問わないというのは良いな。気に入った。
祈りにとって重要なのは心からの願いや感謝なのか。
僕が何となく漠然と祈っている時は願いは全くない。
じんわりといい気分がある。
これはただ今ここに対しての感謝をひたすらにしているのかもしれない。
じゃあ感謝って何なんやろ。
普段よく使ってる言葉やけどあんまりはっきりと説明できない気がする。

「感謝」とは、何か良いことが起こったときや誰かに助けられたときに、心からの感謝の気持ちを抱くことです。これには、他人の行為や存在、あるいは自分の周りの環境や状況に対する肯定的な評価や感謝の感情が含まれます。感謝は、ただ単に「ありがとう」と言葉で表現することから、感謝の気持ちを込めた行動や態度によって示すことまで、さまざまな形をとります。

なるほど、感謝は何か対象に対して肯定的な感情になることを言うのか。
感謝と言えば「ありがとう」という言葉が真っ先に連想される気がするがこれはとても強いキーワードな気がする。
「ありがとう」の対義語について調べてみたがそれは「当たり前」らしい。
確かに「ありがとう」は「有り難う」と書く。
有ることが難しい、つまり有って当たり前の反対だ。
そう言えば祈りに関連する行動として、願いについてもその対象は叶って当然とは思われない、むしろ真逆だ。
つまり祈りには「思い通りに行くばかりじゃない」という前提がある気がする。なんか良いな。

話がめっちゃ変わるけど祈りの考察に関わると思うからとりあえず書く。
瞑想や禅をしていると「今」しかないんだなということに気付いてくる。
自分の心身の状態は定常ではなく、微妙に変化しているのだが僕は普段はそれを自覚できていない。
ずっと同じ「自分」がいるように思い込んでいる。
しかし瞑想や禅をするとその心身の状態に変化に対して敏感になってずっと同じ「自分」というものはいないんだなということに気づく。
その変化は予測がつかないし、過去の状態も一々記憶していない。
禅や瞑想中は「今」の自分しかいない。
ただこの「今」というのは記述できない。
記述した瞬間にそれは「過去」になっているからだ。
言葉では「今」を表せられない。

僕の対象を持たないと思っていた祈りは本当は「今」への感謝だったんだという実感がなんかできた。
ぼーっとした祈りが、祈りであるという確信がなぜかあった。
対象がないと思いこんでいたというか、上手く言語化できなかったのも当然だ。
言語では表記できない不定形の「今」を扱っているものだったからだ。
ただあの時「今」を感じていたんだなと言語で理解できて良かった、とても僕の自信になった。
祈りで「今」に感謝することができるのはとても嬉しいな、これさえできれば僕は幸せだ。

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