見出し画像

おいしいランチを食べよう

 久しぶりに「おいしいランチを食べよう」と思い立った。ずっと心にゆとりがなかったので、店員相手の事務的な会話すら苦痛に感じたり、料理が出てくるまでの待ち時間をもったいながったりしていた。必要最低限の外食作法に則ることすら億劫になっていた私は、ここ数週間前に自身の状況に好転のきざしを見出してから、多少復調しつつあった。

 向かった先は豊富なランチメニューを売りにしているカフェである。開放的な雰囲気で、大体はママ友、とラベリングできそうな女性同士のグループ客ばかりだ。ここの「カフェごはん」は少々値が張るものの、近場で何か良いものを食べたいと思ったとき、私の中では真っ先に候補に上がる。今回はアジアンフェアのメニューから、せいろ蒸しの魯肉飯と迷って、ラクサヌードルとジャスミンティーのセットを注文した。一足早く冬めいた山並みを遠くに望み、来るべき季節をぼんやり思った。

 待っている間、カバンに入れてきた『急に具合が悪くなる』(宮野真生子・磯野真穂著、晶文社、2019年)を読んでいた。日々進行する癌と闘う哲学者の宮野氏と、臨床現場を研究対象とする人類学者の磯野氏の20通(10往復)の書簡をベースとした本である。お二人の繰り出す明瞭でパワーのある言葉は、これまでにも多くの読者を瞠目させてきたことだろう。「死」が差し迫る後半は磯野氏が投げかける本気の問いにハラハラさせられるが、宮野氏は苦しみや痛みを克明に綴りながら、専門である九鬼周造の文章に回答の手がかりを見出し、本領発揮とばかりに打ち返す。強すぎる。

 正午を過ぎて店は賑わってきた。近くに着席した女性二人組からは「遠征」「有岡」という単語が聞こえてきて、彼女たちが何者であるのかすぐに察しがついた。職場と自宅を往復するだけの生活のなかでは、他人の趣味の世界を窺い知る機会がそうそうない。楽しく聞き耳を立てているうちにラクサヌードルが運ばれてきた。意外と器が大きい。

 ところで、おいしい料理の定義とはなんだろう。この問いかけに、健診に引っ掛かりまくりの食生活非行OLである私の出し得る回答は、「ゆっくり食べるための工夫が凝らされていること」である。
 別に、日々の食事はおいしくなくたって構わない。特に仕事の日のランチはマラソンの行動食と大差ないので、なるべく手軽に取り出せて早く食べられて、午後からそこそこのパフォーマンスを発揮するに十分な量があればいい。ところが、ゆっくり食べるための工夫が凝らされたおいしい料理を食べたいと思うときには、食事は単なるエネルギーの補給活動から、心豊かに生きていくための文化的な営為に変容する。そこに友人や恋人とのコミュニケーションが介在するなら、食事のひとときは更に充実した、特別なものとなるだろう。

 さて、そろそろラクサヌードルに向き合うとしよう。まず彩りが鮮やかだ。紅葉が終わって風景から色が消えゆくこの頃は、生命力の強そうな赤と緑が恋しくなる。箸で具をつついてみれば、こんどは厚揚げの弾力に好奇心をそそられる。エビや肉団子も艶やかで見るからにおいしそう。口に運びながら具材の感触をじっくりと確かめる。ココナッツミルクの入った甘辛のスープには小ざっぱりした水菜がバッチリ合う。ライスヌードルはいくら啜っても飽きがこない。だからこそあえてスピードを落とし、よく味わって食べ進めてゆく。

 食べ終わると額に汗が浮いていた。ほろ苦いホットジャスミンティーを飲みながら、私は「心から満足する食事はいつぶりだろう」と考えてみる。思い出せない。情けないことに、どこかで誰かと食事しても「この幸福感や充足感はあっという間に消え去ってしまうのだろう」という虚無感にとらわれて、それゆえにおいしい料理の効用をうまく掴めずにいた。
 しかし、今ならこの満足を明日に繋げられる。会計をして店を出ると、風が枯れ草の間をさわやかに吹き抜けた。これが最後の冬だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?