#55:学術書の翻訳の難しさについて

 はじめにお断りしておきますが、愚痴です。

 先週から、数年前に日本語訳が出版された、とある学術専門書を読み始めていたのだが、読み続けることを途中で断念した。理由は、訳文の質である。

 訳者は二人で、「共訳」となっている。訳者のお一人は、この専門分野では著名な方である。前書きには、一行ごとに原文と訳文を突き合わせて検討した・・・旨が書かれている。しかし、残念ながら、原文直訳体(?)で作業に取り組まれたのか、私見では、翻訳としての基本的な不手際があまりにも多く、文脈が行方不明の、日本語としての文意が見失われている訳文があまりに多い。私としても、是非とも読んでみたい本であったので、それなりに時間をかけて読み下そうと努力したのだが、とうとう気持ちが萎えてしまった。

 この種の経験は、これまでにも何度もある。私自身も翻訳の仕事に携わった経験が何度かあるので、専門書の翻訳作業の大変さは少しは理解しているつもりである。もちろん、多くの翻訳書は、訳者(たち)の努力のおかげで、原著で読むよりもはるかに少ない労力で読むことができる。訳者によっては、原著をそれを母語とする読者が読むよりも、翻訳を読む方がよく理解できると囁かれている場合すらある。けれども、少数ではあるが(そうであることを願う)、翻訳の質が水準に達していないものがあり、喜び勇んで高価な本を買い求めて、大いにがっかりさせられる(正直に言えば腹が立つ)ことがある。今回読み続けることを断念した本も、楽しみにいていた分、失望が大きかった。

 訳者も誠実に努力されたことだろうし、文句を言うべきことではないとは思いつつも、やり場のない気持ちはどうしようもない・・・。私が関係した本だって、読者に同じような思いをさせているのかもしれないし。とはいえ、何とか訳し直して、「改訳版」を出してもらえないものかと、詮ないことを考えずにはいられないのだった・・・。(けれども、後から出た「新訳版」の方がむしろ読みづらくなっている例も珍しくはなかったりもするところが、また難しい。)

 追記 後日、当該の本の書評をみる機会があった。評者は、訳文の読みづらさを指摘しながらも、それは原文が難解だからという趣旨のことを書いていたが、それは違うのではないだろうか。たとえ実際に原文が難解だとしても、それを翻訳したものが日本語としても難解であるとしたら、それは原文を形式的に日本語に置き換えた作業に過ぎないのではなうだろうか。それを当然のように容認する姿勢は、翻訳という作業・仕事の役割と責務を過小評価する姿勢であると、私は思う。