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#117:富樫公一著『精神分析が生まれるところ 間主観性理論が導く出会いの原点』

 富樫公一著『精神分析が生まれるところ 間主観性理論が導く出会いの原点』(岩崎学術出版社, 2018年)を読んだ。著者の論文を読んだことは何度かあるが、単著を読むのは今回が初めて。

 本書は、基本的には、精神分析および精神分析的心理療法における「他者」の位置付けについて論じた論文集だと言えるだろう。著者の関心は、繰り返し語られる「倫理的転回」と、その動向にも含意されるクライエントとセラピストの出会いのあり方にあるようだ。

 著者は自己心理学および間主観性理論の流れを汲む立場にあるとのことである。著者のコフートの理論と臨床に関する理解には、なるほどと思わされる点もある一方で、ややコフート以後の現代自己心理学の立場から強引にコフートに潜在していた(と著者が見るところの)可能性をクローズアップしている感もないではなかった。例えば、コフートの主要概念の一つであった変容性内在化についての現代自己心理学からの否定的な評価は、私にはコフートと現代自己心理学との間にある根本的なギャップの現れであるように感じられた。

 間主観性理論について、ストロロウとベンジャミンの立場の違いが分かりやすく解説されているのは参考になった。私は、ストロロウの立場(とされるもの)には以前から納得がいかない点があり、ベンジャミンの考え方の方に親近感があることを確認することができた。例えば、ストロロウに対する疑問点を一つ挙げるなら、本書で何度か取り上げられる「脱中心化」という考え方で、この観点は私には、ミッチェルが言うところの「ブートストラップ問題」そのものであるように思われる。つまり、端的に言って、それは無理筋では?と思う。

 私が本書の中で最も注目したいと思うのは、インプリシット・プロセスの観点である。そもそもの定義上からも、私たちには自覚することが極めて困難(あるいは不可能)な水準の相互交流であるが、実際の臨床場面においては、私たちが頭で考える以上に(私たちの想定が及ぶ範囲を遥かに超えて?)、このプロセスが面接の進行を大きく左右しているのではないかと言うのが、私個人の見通しである。

 その流れで言えば、これも本書で繰り返し取り上げられるゲントのサレンダーという概念は重要だと思われる。多くの心理療法においては、曖昧であったものをはっきりと自覚することが重要な契機と考えられており、それはそれでもっともなことであると私も思うのだが、他方で、それは「わかること」「理解できること」によってそれを「コントロールしたい」という願望(欲望というべきか?)と表裏一体であるかもしれないことには、注意を払う必要があると思われる。

 ここで、本書の主題の一つである倫理的転回に戻ることになるのだと私は思うが、「理解すること」が一方から他方への「操作すること」に結びつくのか、互いの承認に基づく「対話を始めること」に結びつくのかが、重大な問題として問われることになると思う。これはつまり、私たちは心理療法の営みを通じて、何を目指しているのか、心理療法の営みにどのような価値を見出そうとしているのかという基本的な問題にまっすぐにつながる道である。

 著者の考えには、私には疑問と異論も少なくないが、そうしたことも含めて考えを刺激される本であった。