#554:野家啓一著『歴史を哲学する 七日間の集中講義』
野家啓一著『歴史を哲学する 七日間の集中講義』(岩波現代文庫, 2016年)を読んだ。岩波書店から2007年に双書<哲学塾>の一冊として刊行された本を増補して文庫化したものとのこと。
著者には『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』(岩波書店, 1996年)という本があり(2005年にやはり増補されて岩波現代文庫から『物語の哲学』として刊行されている)、こちらの本は20年ほど前に読んだことがある。本書はその後の著者の思索の展開を踏まえて、より噛み砕いて、わかりやすい表現で、歴史に対する物語り論的アプローチの骨格を示した本であるといって良いだろう。
副題にある通り、本書の論述のスタイルは、実際の講義を模したものであり、フランクな雰囲気で、親しみやすい。本書の議論の中心は、歴史は、あるいは過去は、どのような意味で“実在する”と言えるのか、考えればよいのかという問題にある。著者の立場は、大森荘蔵氏の議論を踏まえて、しかし大森氏の議論の一部に異議を唱えつつ、いわば「過去自体」を私たちは認識することはできないのであり、私たちに可能なのは、特定のパースペクティブから過去を物語ることに限定される(著者はそれを「視点拘束性」と呼ぶ)というものである。
このような考え方は、もはや現在では特別目新しいものではないが、必ずしも広く受け入れられているとまでは言えないだろう。なぜなら、私たちの多くにとって、過去は確かに“あった”のであり、私たちがそれに対してどのような視点や態度を取るかにかかわらず、“唯一の正しい事実としての過去”があるに違いないという実感が拭い難いからである。著者も本書の中で、そして特に増補された「補講2 「歴史の物語り論」のための弁明」において、“物語り論的歴史”についての誤解に対応する形で自身の立場を説明している。
最もありふれた誤解は、“著者の立場は歴史(過去)の実在を否定するものであり、歴史については自由にストーリーを構築して語りうるとするものだ”というものである。このような誤解に対して、著者は、ストーリーとナラティブの違いを指摘した上で、自身の物語り論はナラティブとしての物語りであり、それは自由にストーリーを語りうるという意味ではなく、どのような“事実”も解釈抜きには意味を持ちえず、その解釈のいわば向こう側に、その解釈の当否を判定する基準が存在するわけではないと述べている(私の理解では)。
これ以上、本書の議論の詳細に立ち入るのは差し控えて、私の関心である心理臨床の領域との関連について、私見を書き留めておきたい。私は著者の立場に基本的に賛成するものであるが、著者の議論の含意の中でも、私が最も重要なこととして受け取ったのは、過去についての理解は常に新たな解釈に開かれているという点である。このことに関連して、本書から二箇所引用しておきたい。
上記の引用に示されているものを、歴史家の仕事と心理臨床家の仕事には大きな相違があることを踏まえつつも、心理臨床の文脈に、とりわけ私の心理臨床の感覚に、引きつけて読み替えてみたい。
一般にはそのように思いなされている向きもあるかもしれないが、心理臨床の仕事は、“クライエントが自分の過去に正しく向き合うことを目指す”ものではない。また、一部のアプローチにおけるように“ドミナントなストーリーをオルタナティヴなストーリーに書き換えることを目指す”ものでもない、というのが私の考えである。私の考えでは、“クライエントが、より正確にはクライエントとセラピストが、生きている現在という文脈から、過去と現在の結びつきを捉える、捉え直すことを通じて、未来へと向かう新しい道筋を生み出すことを目指すこと”が、上記の引用と関連づけて考えたときの、心理臨床の仕事の本質である。どういうことか。
クライエントは、特定の自己理解と自分を取り巻く状況についての理解という文脈の中で、迷い悩んでいることが多いだろう。しかし、その理解には、少なくとも潜在的には、常に別様の可能性があるだろう。そうした理解において、何を選択して何を排除するかは、クライエントの価値観に関わる問題だろう。したがって、クライエントの理解のあり方について、クラエイントとセラピストの間で探索的な話し合いをすることは、クライエントの持つ理解が根差す価値観の吟味へと進んでいくことが多いだろう。
そこでクライエントの持つ理解に何かの変化が起きるとするなら、それは何を自分にとって重要とするかの価値観の何らかの変化を伴うことが多いだろう。そこでは、ある理解が別の理解へと変化するのは、それが正しいか誤っているかという基準によってでもなければ、それが有用性が高いか低いかという基準によってでもないだろう。実際には、“正/誤”や“有用性が高い/低い”という基準で仕事をしている心理臨床家やそうした心理臨床家が依拠する理論が存在することは否定できないようにも思われるが、私には、それは心理臨床の仕事の本筋であるとは思えない。
何を選択し、何を排除するかは、価値に関わる問題であり、どの価値を重んじるかは倫理の問題である。私が心理臨床の仕事において主に関わるのは個人であるが、そうした個人たちの生きる上での選択の積み重ねが、この社会を形成していくことを考えれば、心理臨床の仕事は、単に個人の福祉に資するにとどまるものではない。
・・・えーと、何が書きたかったのかわからなくなってきた(笑) 繰り返すが、私の考えでは、心理臨床の仕事は、過去を正しく認識することでもなければ、クライエントが生きやすくなるストーリーを生み出すことでもない。現在という文脈から過去を意味づけ直しそこから未来へ進む道筋を構想する、その繰り返しにあると思う。だから、いわゆる“問題”が“解決”して終わりになることはない。それは何度でも立ち戻ってくるし、その度に過去の意味づけは変わっていくだろうし、未来へと描かれる道筋も変化するだろう。そして、このような営みの積み重ねは、社会のあり方へと接続しているのである(あるいは、社会のあり方がそのような私たちの営みを規定してもいる)。
だから、現在の心理臨床の世界で重んじられる(ことになっている)エビデンスは、部分的な方法上の選択肢を提供するものではあり得ても、個々の心理臨床の営みが進む方向を規定することはできない。もし、エビデンスが心理臨床のあり方と個々のクライエントの進む方向を規定する、それどころか規定するべきだと考える人たちがいるなら(“確実なもの”を選択し“不確実なもの”を排除するべしといったように)、それは極めて重大な倫理的選択の問題であり、私には根本的に誤った態度であると思われる。
連想が本書からだいぶ離れてしまったが、私にとっては、こうしたことについて改めて考えることを促される、とても貴重な機会であった。過去を振り返ることにどんな意義があるだろうかと考えたことがある人たちをはじめ、本書を広く勧めたいと思う。