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#88:鈴木國文著『「ほころび」の精神病理学 現代社会のこころのゆくえ』

 鈴木國文著『「ほころび」の精神病理学 現代社会のこころのゆくえ』(青土社, 2019年)を読んだ。著者はラカン派の精神科医。本書は、著者が診療経験を通じて見てきた患者の病態や精神科医療のあり方の時代的な変化を跡づけつつ、それらを社会のあり方の変化と関連づけた論考を中心に再録して、一冊の本としてまとめられたものである。

 著者が指摘する変化の一つは、「不安」や「うつ」が社会・文化の中で創造的な形で乗り越えられていくというダイナミックな機序があまり作動しなくなり、薬物や認知の変化でコントロール可能なものとして対処されることが主流になってきたことである。そこでは、精神医学が主要な拠り所の一つとしてきた「人格」という見方・考え方が次第に背景に退いて行っているという。

 著者が指摘するその様な変化は、心理療法の世界においてもほぼ同時並行する形で起きてきていることである様に思う。クライエントの人格全体を尊重して、クライエントと向き合うことを基本とする心理療法のアプローチが主流の位置から滑り落ち、クライエントの訴える問題を切れ味よく解消することを目指すアプローチが前景化してきているのが近年の顕著な傾向であるように思う。

 こうした変化の中で、「不安」や「うつ」は、それと向き合う過程においてクライエントの人格の中に、その「不安」や「うつ」をもたらす要因が新しく捉えなおされ、新しく統合されていくことを通じて成長・成熟の契機ともなるという位置づけから、もっぱら端的に解決・解消されるべき問題としての位置づけへと、その比重が移り変わっているように思われる。現在では、クライエントの訴えの「意味」をあまり考慮することなく、「効果的な心理療法」の実践が目指されている場面を見聞きすることが増えてきたと、私は感じている。私個人は、そのような現状に強い疑念があるのだが。

 さらに、著者が指摘する変化の中で私が重要だと思うのは、社会から「外部」が見失われてきていることである。著者はそれをラカン派の立場から、欲望のあり方の観点から論じている。社会の外部、到達不能であると同時に目指されるべき理想的価値がその力を失うことで、人格を立ち上げる「垂直方向の重力」は弱まる。精神医学の主領域が、統合失調症から発達障害へと移行したことも、同様の指摘をする論者は少なくないが、「垂直方向の病理」から「水平方向の病理」への移行、あるいは抑圧中心の防衛メカニズムから解離中心の防衛メカニズムへの移行として捉えることができる。このような変化の中で、倫理のあり方も変化して、倫理の問題は価値の問題であるよりは、ルールを守る技術の問題へと矮小化されているようでもある。

 このような状況に対して、著者は「強い思考」と「弱い思考」を対置するかたちで、社会の変化にもかかわらず「強い思考」に覆われ続けている現在の精神医学、精神病理学は「弱い思考」を必要としていると言う。「強い思考」が近代の知、とりわけ自然科学の知を指すとするなら、「弱い思考」とはどのような知であり、どのような知をもたらす思考であるのか。そこに私たちが取り組むべき問題がまだ十分に手をつけられることのないままに広がっているというのが、著者の見立てであり、立場であると思われる。

 私もまた、著者の思索に導かれて、あるいは著者の思索と対話しながら、「弱い思考」の心理療法学に取り組みたいと思う。それがもたらす知がどのようなものか、まだその輪郭はぼんやりとしたままであり、まだまだ暗中模索の手探りが続いているのだが。