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#109:山崎正和著『柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学』

 山崎正和著『柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学』(中公文庫, 1987年;初出は1984年)を読んだ。恥ずかしながら、著者の本を読むのは初めて。もちろん著者の名前は、私が通った頃の学校の教科書にも確か文章が載っていたし、よく知ってはいたのだが、なぜかずっと手が伸びなかった。

 旧仮名遣いの文体に虚を突かれながらも、何とかめげずに読み進めるのだが、なぜか私には論旨が追いにくい。最後の第3章「消費社会の『自我』形成」になって、やっと私にも著者の論述の目鼻が見えてきた・・・と思ったら読了。ちょっと肩透かしを食ったような取り残され感が残った。

 一つ一つの論点には、興味深く思われるものも少なくなく、現在の社会のあり方について考えるうえでも参考になるところもある。例えば、「顔の見えない社会」から「顔の見える大衆社会」へという議論は、恐らくは著者の想定を裏切って、現在では「顔の見えない社会」へと、ただし実社会からヴァーチャルな社会へと、大きな揺り戻しが起きているように見える点で、私には興味深い。別の観点と用語では、著者は「技術的人間」と「芸術的人間」、「硬い自我の個人主義」と「柔らかい自我の個人主義」を対比して、いずれも前者から後者への移行が起こりつつあるという見通しを述べているのだが、これもまた、その移行は十分な実現を見ないままに、いずれも前者の側へと揺り戻しが起きているように見える。ここには、実は深く掘り下げて考えてみなければならない重大な問題が含まれているように私には思われる。

 本書が出版されたのは1980年代半ばである。1980年代は、私個人にとっては、高校時代と大学時代が丸ごとすっぽりと収まる時期になる。当時の私は、若さゆえの楽観的な見通しも手伝ってか(主観的にはどちらかというと陰鬱な生活を送っていたが)、この社会は豊かに発展していくだろうと、素朴に信じていたところがあったと思う。しかし、そのいささか能天気な予感は、1990年代に突入して以降、次第にあらわになっていった現実の深刻さによって少しずつ暗く塗り潰されていくことになる。

 粗雑な問いの立て方ではあるが、1980年代から1990年代にかけて何が変化したのかという疑問が、最近の私の中では、ぼんやりとではあるが、少しずつ大きく育ってきている。1970年代後半から1980年代を経て、あり得たかもしれない未来(現時点から見れば過去であるが)は、なぜ実現しなかったのだろうか? ある意味ではとても私的な問いではあるのだが、しかしこの問いを考え抜くことを通じて、「あり得たかもしれないが実現しなかった可能性としての現在」から、「現実に実現している現在」を眺めてみることで、この現実を必然的なものとしてではなく、多様な可能性の一つが実現したものに過ぎないものとして、つまり変化可能なものとして、自分なりに捉え直したいと思うのである。それが、私にとっての「自由」につながる道の探し求め方であるように思う。 

 本書に話を戻すと、読んでいて私には何か居心地の悪さがずっと感じられてならなかった。先ほども触れたように、所々、著者の着眼点の鋭さには感心させられるにも関わらずである。私が感じ続けた居心地の悪さと、先ほどまで述べていた私の問題意識とは、どこか私にはまだはっきりとはわからないところでつながり合っているという予感がする。そのつながりが何であるのか、その輪郭がいつか自分に見えるようになることを、じっくりと待ってみたいと思う。

 もう若くはないので、あんまり待ってばかりもいられないかもしれないけれど(笑)