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#58:平井正三著『意識性の臨床科学としての精神分析』

 平井正三著『 意識性の臨床科学としての精神分析 ポスト・クライン派の視座』(金剛出版, 2020年)を読んだ。著者はわが国を代表するクライン派の精神分析家の一人。著者の著書としては、かつて『子どもの精神分析的心理療法の経験 タビストック・クリニックの訓練』(金剛出版, 2009年)と『精神分析的心理療法と象徴化 コンテインメントをめぐる臨床思考』(岩崎学術出版社, 2011年)を読んだことがある。それらの本を通じて私が得た著者の考えについての印象と、本書から受ける印象は大きく異なる。私には、この10年間の間に、少なくともこれらの著書の間に、著者の臨床的思考、ないし臨床的スタンスに大きな変化(深化?)が生じているように思われた。それとも、それは著者の書き方、強調点の比較的小規模な変化に過ぎないのだろうか?

 著者の専門性と私の専門性には、大きな括りで言えば近いものがある(もっとも、将棋界に例えるなら、著者がA級在籍期間10年以上のトッププロとすれば、私は縁台将棋専門のヘボなアマチュアであるが)。しかし、そのスタンスは、私から見れば正反対と言っていいくらいに異なっているというのが、これまでの私の理解であった。しかし、本書を読み始めて大変意外だったことに、著者のスタンスは、私が属している(と思っている)グループのスタンスに接近する方向に変容しているように(少なくとも表面的には)思えるのだ。もし著者がこのようなコメントに接したら、おそらくにべもなく否定されるのではないかと思うけれど。

 例えば、次のような一節は、そこにクラインの名前が含まれていなければ、全く別の学派の考え方を説明した文章であったとしても、私はあまり違和感を感じない。

 こうして見えてくることの一つは、私たち精神分析臨床家が行うことがクラインの示したように意味の生成と展開であるとするならば、それはクライアントの表現の「正体」を明かすことではなく、別の文脈、別の意味の可能性を、具象化と抽象化を行き来しながら、そしてその用いられ方に留意しながら、 見つけ出し、示す運動をしていくことである。(p.48)

 次の引用は、私のような者にも納得がいくものであり、他の心理療法のオリエンテーションと精神分析的心理療法とを分つ特徴をよく示していると思われる。

 このようにして見ていくと、精神分析的心理療法の治療作用の本質は、セラピストが、転移ー逆転移関係を通じて喚起される痛みを通じて、クライアントの痛みを分かち合うような形に協働関係を深化させていくことであるとも考えられる。(p.136)

 また、次の引用からは、私がこれまで理解してきたクライン派(少なくとも日本の)の特徴とは、かなり異なる印象を受ける。

 ここまで論じてきたように、こうした「治療」の過程においては、クライアントの心に起こる事は、セラピストの心の中での第1相と第2相の作業とパラレルと考えられるのである。すなわちセラピストは、自分の「理解」は仮説に過ぎないことを認める作業が必須なのである。それに加えて、自分が気づかないところでクライアントに関して一定の見方を取っているにもかかわらず、それに気づいていないか気づいてもそれは事実であるとセラピストはみなしているかもしれない。そこでそれらは自分の見方に過ぎないことを認めていく作業が必要となる。(p.138)

 とはいえ、第3章から第6章にかけて取り上げられている事例とその考察には、「以前の」著者のスタンスが濃厚に感じられる。例えば、著者は繰り返し、フォナギーらの実証的研究などに触れながら、治療行為としての精神分析実践の本質はクライアントの内省能力を育むことである、という趣旨のことを述べている。この見解には、私は同意しない。このような見解は、後でも別の形で触れるが、典型的に「一者心理学」の枠組みによるものであると思う。「一者心理学」の立場をとらない私の考えは、対話する能力を育むことである。

 一方、本書のために書き下ろされたとみられる、第7章とその補論、および第2部のまとめには、そうしたスタンスとは異なる、著者のより現在に近いスタンスが反映されている印象がある。中でも、「分析家やセラピストは、そうした理解や「治癒」を自分が作り出すのではなく、そうした生成過程の中に自分がいる、いわゆる中動態的な事態(國分, 2017)であると考えるべきであろう」(p.186)という著者の見解には全面的に同意したい。私自身に引き付けて言えば、このようなスタンスこそが、私たちのグループが、そして私自身がずっと取り組んできた姿勢に重なるものである。だからこそ、國分氏の『中動態の世界』(2017)を読むことで、私は自分たちが取り組んでいることを別のやり方で思考する道筋に出会い、大いに触発されると同時に、味方を得た思いに力づけられたのだった。

 ただ、このような著者のスタンスに対して生じる私の疑念は、そのようなスタンスを著者が依拠している学派の思考の枠組みの中で十分に展開できるのだろうか?という疑念である。私から見て、クライン派の思考の枠組みは典型的な「一者心理学」である(この見解には著者から強力な反論がありそうだが)。そして、國分氏が「中動態的な事態」として説明していることは、私の理解では、まさに「一者心理学」的な理解のあり方とそれにまつわる「意志」のあり方に対する見方を解体(脱構築)する見方である。私には重大な齟齬に見えるこの点に、著者はどのように応えようとしていくのだろうか?

 例えば、著者は第8章において、「精神分析的クレオールを作り出していくこと」に関して、「私たち精神分析臨床家、特に対象関係論的な志向性を持つ臨床家の臨床思考において、自己と対象、私とあなたの分節化は決定的に重要である。」(p.202)と述べた上で、それと対比する形で國分(2017)の考えに触れている。また、第11章(書き下ろし)の「Ⅱ 理解と記述の言語の問題」においても同様の問題が取り上げられている。これらの箇所からは、上に私が指摘した問題を、著者が何らかの形で意識していることを示唆しているようにも読める。

 「あとがき」まで読み進めると、本書は著者にとって、自分の言葉で考えを紡ぎ出す試みであると同時に、これまでの思索の延長にあると位置づけられているようである。私には、それがある種の「転回」にも見えるのだが・・・。著者はこの分野において一定の発信力と影響力を持つ人であるだけに、今後どのような方向にその思索と実践を展開していこうとしているのか、私には興味深く思われる。