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#156:池田喬著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』

 池田喬著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(NHKブックス, 2021年)を読んだ。このブログで何度か触れているが、私はハイデガーには積極的な関心はないし、良い印象も持っていない。学生の頃に、木田元著『ハイデガーの思想』(岩波新書, 1993年)を読んだときにも、ハイデガーに対する関心はあまり高まらなかった。しかし、『存在と時間』は気になるし、いつまでも素通りし続けるわけにはいかないと、常々思ってはいる。そんなところに本書を新聞広告で見かけて、手に取ってみようと思った次第である。

 これまで私がハイデガーに良い印象を持てずにいるのは、ハイデガーの思想の中身そのものがどうこうという以前に(そもそもハイデガーの思想の中身をほとんど理解できていない笑)、ハイデガーをめぐる言説につきまとう独特の空気というか雰囲気というか、「深遠な」というような形容詞がよく似合う、熱狂的に神格化されたようなイメージが、何とも肌に合わないのだと思う(それを言うなら、ウィトゲンシュタインだって・・・という気はしないでもないが笑)。

 しかし、本書にはそういう空気感は(良い意味で)感じられず、最後まで興味深く読み続けることができた。著者が比較的若手の人であること(とは言え40代前半ではある)、ハイデガーとの間の時間的及び歴史的な距離が開いてきていることが、影響しているのかもしれない。「手垢にまみれていないハイデガー」とでも言えるだろうか。

 『存在と時間』の日本語訳は何種類も出版され、解説書や入門書も何冊も既にある中で、著者は「序 なぜ『存在と時間』についてなおも書くのか」において、本書の狙いを次のように書いている。

 この本が目指しているのは、『存在と時間』にさまざまな角度からアクセスし、その内部に入り込み、内部動き回るーーそういう意味での入門である。大学キャンパスのように、内部に通じる門は大小さまざまにいろいろなところにある、と言うイメージだ。(p.9)

 また、「おわりに」には、次のような一節がある。

 存在と時間について、ハイデガーの言葉を単に繰り返したり組み合わせたりしてわかった気になるのではなく、本当に腑に落ちるまで自分と相手に理解できる言葉へとパラフレーズしなくてはいけない。本書の根本的な動機はこれである。(p.349)

 著者の狙いは、十分に成功しているのではないかと、ハイデガー初心者(歴数十年)の私は思う。ハイデガーが『存在と時間』で切り開いた問いが何であったのかを、平易な言葉で、深遠ぶることなく、日常生活の場面を丁寧に例に挙げながら、著者の読解として示してくれる。今回はじめて、私はほぼ途中で「つまずく」ことなく、著者の読解についていくことができた。著者に感謝である。

 本書が平易な言葉での説明に努めているとしても、ハイデガーの切り開いた問いは決して平易な内容に尽きるものではない。その問いの射程は大きく、そこで切り開かれたものをどのような問いに接続し、あるいはどのような問いとして受け継いでいくかが、これから、研究者の世代が新しくなっていくことで、真に問われることになっていくのだろう。

 それにしても、ハイデガーの造語を日本語に訳した時の訳語は何とかならないものだろうか。著者が指摘するように、ハイデガーの造語自体が、古代ギリシア語を翻訳する形での「翻訳論的エポケー」(p.89)として機能しているのだとしても、もう少し平易な日本語にならないものかと思う。このあたりも、新しい世代の研究者たちに期待したいところである。私の生あるうちに、「謎めいた神秘的な哲学者」というイメージとは全く異なるハイデガーに出会ってみたいものだと、うっすらと思う。