#61:森有正著『思索と経験をめぐって』

 森有正著『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫, 1976年)を読んだ。手元にあった本書は1991年発行の第22刷。おそらく初読だと思うけれど、そう思っていたらそうでなかった例が最近あったばかりなので(笑)、そうではないかもしれない。私がこれまでに読んだと記憶している著者の本は、『生きることと考えること』(講談社現代新書, 1970年)と『いかに生きるか』(講談社現代新書, 1976年)の2冊くらいで、読んだのはいずれも前世紀になる。

 読み始めてすぐに出てくるのが、「言葉が経験を定義するのではなく、経験によって言葉が定義される」という趣旨の著者の考えで、これには深く考えさせられた。著者が述べていることは、私の理解では、「まだ経験になっていないもの」を「言葉」でつかまえ(迎え)に行って「経験」を語っているつもりになってもそれは空虚であること、そうではなくて、「まだ経験になっていないもの」に自分がつかまえられて、それを「言葉」にすることができた時に「経験」が生まれるということではないかと思われる。

 このことを心理療法の場面に当てはめると、次のように考えることができるのではないだろうか。クライエントが語ることをセラピストの既有の言葉や概念で理解したつもりになってもそれは空虚である。そうではなくて、クライエントが語ることに聞き入ること、クライエントが語ることをクライエントが語るがままにわかろうと努めることではじめて、セラピストは、クライエントがつかまっている「まだ経験になっていないもの」に自分もまたつかまえられるようになる(つかまりにいくことができる)のではないか。そして、その状況(これをエナクトメントが相互に生じている状況と呼ぶことができるかもしれない)の中でクライエントとセラピストが相互に力を貸し合って「言葉」が見つかった時にはじめて、クライエントにとって(そしてセラピストにとっても)意味のある「経験」が生まれるのではないだろうか。

 上に述べた書き方は粗雑でしかないが、心理療法の作用について考えを進める上で、非常に重要なポイントになる気がする。

 また、「経験」と「個人」との関係をめぐる著者の考えに触れると、自分が日常的に使っている言葉の意味が疑わしくなり、自分では自分を「個人」だと思っているけれど、その「個人」は著者が述べているように、欧米文化における「個人」とは実は似ても似つかないものなのではないかと振り返らざるを得なくなる。今こうして文章を書いていること自体がそうだが、本を読んで何かをわかったような気になっている自分は、全く何もわかっていないのではないか、著者が述べる「経験」の裏付け、「内的な促し」から生まれる日々の鍛錬の積み重ねの裏付けのない「言葉」は、空虚でどこにも届かないただの観念的な独り遊びに過ぎないのではないかと、自分を疑う気持ちでいっぱいになる。

 自分自身とどう向き合っていけばいいのだろうということを、改めて考えさせられ、問題として突きつけてくる「厳しい」本であると思う。