#54:丸山圭三郎著『言葉とは何か』

 丸山圭三郎著『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫, 2008年)を読んだ。解説によれば、本書は元々1982年に日本放送出版協会から出版された本の一部を、1994年に夏目書房から刊行したものとのこと。

 丸山圭三郎の著作を読むのはほぼ30年ぶり。私が大学に入学した当時は、浅田彰氏の『構造と力』が難解な専門書としては異例の売れ行きを見せて注目を集めて、いわゆる「ニューアカ」ブームが始まって少し経った頃。高校生当時には接する機会のなかった「現代思想」についての知識を急いで仕入れなければ恥ずかしくてキャンパスを歩けない気分だった(ちょっと大げさ[笑])。

 入学してすぐに大学生協で買った、『別冊宝島44 わかりたいあなたのための現代思想・入門』(宝島社, 1984年)は、私にとって、『地球の歩き方』ならぬ「大学の歩き方」とでも言うべき、学びの世界へのガイドブックだった。そんな中で初めて名前を知ったのがソシュールであり、ソシュールについて知りたくて初めて読んだのが丸山圭三郎著『ソシュールを読む』(岩波書店, 1983年)だった。

 それをきっかけに、当時の学生にとって必読書的位置付けの一冊だった『文化のフェティシズム』(勁草書房, 1984年)、さらに『言葉と無意識』(講談社現代新書, 1987年)、『欲動』(弘文堂, 1989年)、『言葉・狂気・エロス』(講談社現代新書, 1990年)と著者の本を読んでいった。学生の頃の私にとって、著者はスターの一人であった。

 中でも、最初に読んだ『ソシュールを読む』のインパクトは絶大だった。それまでまったく触れたことのない考えに接して、世界の見え方が変わるほどの興奮を覚えたことを懐かしく思い出す。それは例えば、本書の中から一例を挙げるなら、著者が次のように説明するソシュールの考え方である。

 体系というのは、多くの場合、「個々の要素が相互に関わりあっている総体」とか「それぞれが密接な関係におかれた部分から成る全体」というふうに解説されます。しかし、それだけでは、部分としての個があらかじめ存在している実体のように思われかねません。ソシュールの言った言語の体系は、全体があってはじめて個が存在するものであり、そこでは独立した個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他の要素との相互作用のなかで、はじめて個の意味が生ずるような体系なのです。(p.74)

 著者はこれに続けて、「これは<場>を重視する考え方とも通じます」と述べている。そして、続くパラグラフでは、次のように述べている。

 人間の文化・社会の研究においては、この体系的視点はさらに重要なものとなります。例えば経済現象、法律現象、政治現象にしても、それぞれが決して孤立したものではなくて、根本においては一つになった全体としての社会現象のそれぞれの一面に他なりませんし、また社会を全体としてそれを構成する個人をその構成因子として見た場合、社会は人間がその中に住む環境であり、それらは決しておのずから存在し、おのずから成るものではなく、相互に規定しあっています。くだいて言えば、人間が環境を作るものでありながら作られた環境によって逆に作りかえされる、いわゆる作りつつ作られ、作られつつ作るという相互限定が、人間と社会ーー個と全体の間に成り立っていると申せましょう。(p.75)

 このように引用してみると、自分でも驚くのだが、現在私が考えることに取り組んでいるテーマの原型が、このソシュール=丸山の考えの中にすでに述べられていることに気づく。つまり、自分では意識していなかったが、約35年前に、私はすでにこのような考え方に接していたはずなのだ。このことに気づくことができただけでも、私にとっては今回本書を読んだ価値は十分にあった。

 本書は記述がわかりやすく、ソシュール言語学とそれを読み解く著者の思索への入門書として適切なうえに、行き届いた解説(中尾浩氏による)、参考図書案内、読書案内、人物紹介、術語解説などの「付録」も充実しており、手元に置いておく価値のある本だと思う。