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#545:きたやまおさむ著『「むなしさ」の味わい方』

 きたやまおさむ著『「むなしさ」の味わい方』(岩波新書, 2024年)を読んだ。著者の本は北山修名義も含めて多数あるが、岩波新書から刊行されるのはこれが初めてではないか。

 本書のテーマは「むなしさ」。「むなしい」という気持ちは、しばしば不快な、あるいは居心地の悪いものとして、それを感じることが避けられがちだったり、それが感じられるや否やそれ以上感じずに済むように何らかの対処がされたりしがちなものであろう。確かに、現在の社会には、「むなしさ」や「暇」や「退屈」を紛らわせるための便利な道具や刺激に事欠かないように見える。そうした現在の状況を言い表す「「喪失」を喪失した時代」という著者のネーミングセンスにはさすがと思わされる。そういえば、同じく(はるかに)多くの著書をものした「日本のミスター精神分析」こと小此木啓吾氏はこうしたネーミングセンスにおいて卓抜な人であった。

 しかし、そうした現在の状況を踏まえて、「むなしさ」はそれほどまでに避けるべき/避けられるべき感情なのか、「むなしさ」を避け続けるとどうなるのか、逆に「むなしさ」とつきあうようにすると何が得られる可能性があるのか、といったことを論じるのが、精神科医であり精神分析家である本書の著者の立場である。

 本書の中で私にとってとりわけ印象的だったのは、「間(ま)」をめぐる著者の考察である。「間(ま)」はときに「魔(ま)」につながるという著者の指摘とそれをめぐる考察は、日本語臨床研究を牽引してきた著者らしいものと言えるだろう。著者の指摘に導かれて、私たちがときに「間」を嫌い、「間」に居心地の悪さを覚え、「間」を恐れるのは、確かにそれが「魔」へと変貌することへの恐れと予感のせいなのかもしれないと考えさせられた。

 ここから少し私の連想を広げてみる。「間が悪い」とか、「間が合わない」とか、「間がもたない」という表現は、しばしばタイミングのずれを表す場合に使われるように思われる。では、その逆の状況を表す表現は何だろうか? 「息が合う」とか、「ぴったり間に合う」とかいった表現がそれにあたるのではないだろうか。「息が合う」とき、「間」は「魔」に変貌することなく、「生き」始めると言えるのではないかとも思う。

 私たちは、時間をかけてじっとそこで待ち続けることができれば、何か新しいものが生まれる可能性があるそのきざしのようなものを、待てずに、恐れて、何かどうでもよいかもしれないもので埋めて、その可能性を窒息させ続けているのかもしれない。「効率」と「成果」の掛け声は、そうした傾向を一層助長するものであるように、私には思われる。

 地面からわずかに顔を出すか出さないかの芽を、あるいは芽が地上に姿を表す前の微かな土くれの隆起を、その芽が雑草と呼ばれるものに育つか、人の目を惹く花を咲かせるものに育つかわからないままに、それと気づき、そこに目を留め、その成長を見守ろうとする姿勢を、私たちが私たち自身に、そして身の回りの他者に対して持ち、保つこと。現在、それがますます大切なことになっているのではないかと思われてならない。そして、心理臨床の仕事の本質はそこにあると、私は考える者である。