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#90:河合隼雄著『こころの最終講義』

 河合隼雄著『こころの最終講義』(新潮文庫, 2013年;原著は『物語と人間の科学』として1993年に岩波書店から刊行)を読んだ。本書に収められているのは、あわせて6つの講義・講演で、一番早い時期のものが1985年4月で、残りの5つは1991年9月から1993年2月にかけての約1年半の間に行われたものである。

 話された機会によってそれぞれの主題は異なるのであるが、これらの講義・講演を貫いているのは、「物語ること」というテーマであると思われる。そこでは、西洋の近代の自然科学を模範とした知では割り切ることのできない、対象化して操作しようとする働きかけの及ばない私たちのこころのあり方が、コンステレーション、宗教性、男性性と女性性などといった観点から、重層的に論じられている。

 著者が繰り返し語る(!)のは、「説明すること」とは異なって、「物語ること」には必ず語り手である「私」が入り込んでくることである。カウンセリングや心理療法の場に現れるクライエントは、ただ「話をしている」のではなくて、「物語っている」のであり、カウンセラーやセラピストの役割は、クライエントが「物語ること」を「物語り」として聴き、理解することに努めることにあると言えると、私も思う。そして、「物語りとして聴き、理解すること」にもまた、聴き手の「私」が入り込んでくることは不可避であると思われる。

 面接の場で、クライエントは、自分がどのように生きているか、生きてきたかを物語ろうと努める。物語ることは、さもなければばらばらで互いに関連がない出来事でしかないことに、自分にとっての意味を見出そうとする苦闘であると言えると思う。多くのクライエントは、主訴という入場券を握りしめて、無自覚的ではあるかもしれないが、こうした苦闘に取り組むべくカウンセラーの前に現れるのだと、私は理解したい。そこでカウンセラーが行うべき仕事は、物語ることを通じてクライエントが自分の生にコミットを深めようとすることにつき従うこと、クライエントがそうしたことに取り組むことにコミットしていくこと(そして応答していくこと)であると思う。著者が繰り返しいろいろな形で述べていることは、こういうことであると、私は思う。

 著者の心理臨床に対する向き合い方に、私は深い共感を覚える者であるが、著者が世を去られてのち、こうした姿勢はしだいに存在感が薄くなりつつあるのではないかと、私は強い危機感を持ち続けている。現在の主流は、効果的かつ効率的にクライエントの問題を解決する(しかし、誰にとっての効果であり効率なのだろうか?)ことを重視する方向へと傾いているように感じられるが、そうした姿勢は反面で、クライエントが生の新しい可能性を探り出す機会を逸することにもつながりうることを、私たちは改めて考えねばならないのではないだろうか?

 つい先日、かつての著者と同様に日本の心理臨床を第一世代として最前線で牽引してきた鑪幹八郎先生が亡くなられた。現在進行中の時代と社会の大きな変化の中で、大きな業績を残されたパイオニアの先生方が切り拓いて残してくださった道を、どのように継承し、新しい潮流とどのように建設的な対話を育むことができるか、私たちには重く大きな課題が残されていると、改めて考えさせられた。