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#577:朱喜哲著『NHK 100分 de 名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯』

 朱喜哲著『NHK 100分 de 名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯』(NHK出版, 2024年)を読んだ。著者の名には、以前読んだ、谷川嘉浩・朱喜哲・杉谷和哉著『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』(さくら舎, 2023年)の著者の一人として見覚えがある。ローティに関しては、まだその著作は読んだことはないのだが、大学生の頃に大学生協の書籍部に平積みされていた、当時の新刊の『哲学の脱構築』(御茶ノ水書房, 1985年)が、分厚くて重くて高価な本としてずっと記憶に残っている。確か、一度図書館で借り出したのだが、読もうとして数ページで投げ出したはず(笑) また、しばらく前のことになるが、冨田恭彦氏の著作を何冊か続けて読んだことがあった折に、ローティに関する記述に出会ってかなり興味を惹かれたのだが、その時も結局はローティ自身の著作にまでは手が伸びなかった。そんなこんながあって、書店で本書を見かけて入手したというわけである(NHKのテレビ放映の方は未視聴)。

 本書における著者のローティ読解の基本線は、本書の副題にもなっている「会話を守ること」にある。著者が本書で述べていることを私なりに要約すれば、ローティは、哲学の仕事を真理の追求と見なすことをやめることで(もちろんそれにはちゃんとした理由がある)、目標にたどり着いて探求を終わらせることではなく、より良い社会を共同で築き続けるための、どこまでも終わりのないコミュニケーションを継続させる営みとして捉え直した、ということになるだろうか。やはり、プラグマティズムの系譜に連なる人だなと思う。そうしたローティの立場を表現するのが、ローティ自身が使う「リベラル・アイロニスト」というフレーズになるようだ。

 本書の中で特に印象的なのは、ナボコフの『ロリータ』についてのローティの読みを紹介している部分。人の感じる心の痛みや社会にある残酷さ、さらには私たち自身のうちにある残酷さに気づく契機を与えるのは、哲学、あるいは学問一般ではなく、フィクションであり、ルポルタージュであるというその主張には、深くうなずきたくなる。

 なぜなら、私にとっての心理臨床の仕事の本質の一部は、当事者自身にもそれを何らかの形を取ったものとして表現することが困難な、まだ形になりえない、後に何らかの心の痛みや悲しみや怒りとしてつかみ取ることが可能になるかもしれない何ものかを、まずそこにある何かとして感じ取り、そこに共に注意を払い、それを“私たち”の間で共に確認し、取り扱うことができるもの(こと)へとたどりゆくことだからだ。著者が紹介するローティの考えには、こうした私の考えと響き合う部分があると、私には感じられるのだ。

 本書で著者が取り出しているローティの論点は、私にはいずれも興味深く思われた。著者による手際の良いまとめに満足せずに、ぜひローティのこの著作を自分で読んでみたいと思った。ようやく、私にとって機が熟したということなのかもしれない。