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#164:松下姫歌著『ネガティヴ・イメージの心理臨床 心の現代的問題へのゼロベース・アプローチ』

 松下姫歌著『ネガティヴ・イメージの心理臨床 心の現代的問題へのゼロベース・アプローチ』(創元社, 2021年)を読んだ。新聞広告で見かけて、基本的な問題意識が私のものに重なるものがあるのかもと思い、読んでみようと思った次第。仕事柄(広い意味で業界が同じ)、著者の名前は以前から見かけることはあったが、その文章を読むのは今回がはじめて。

 著者が拠って立つのはユング心理学の考え方で、ユングが考える意味での自我と自己の関係において、自己に関わる自我の働きが確立していくプロセスを論じることが、本書の主軸であると言えると思われる。全体は2部構成であり、第1部は「理論篇」、第2部は「事例篇」となっている。

 率直に言って、私の考えでは、「理論篇」の方は十分には成功しているとは言えないと思う。木村敏氏と山中康裕氏の論考が主要な参照先となって論述が進められているが、著者が書こうとしている(と私には思われる)ことを表現する方法を見出すには、さらなる洗練と彫琢と思索の掘り下げが不可欠だろうと、私には思われる。他方で、「事例篇」の方は、臨床家としての著者の実践のあり方と視点とが丁寧に書き込まれており、読み応えがある。おそらく、著者の本領はこちらの方に存分に発揮されているのだろう。

 私になりに本書の主張を要約すれば、現代社会において「ネガティブ=否定的・欠如的」に語られる、あるいは受け止められるものの中には、現代社会において「自明」とされ、改めて問われることもないようなあり方からは「ネガティヴ」とされていても、それ自体は、別の視点からすれば、「ポジティブ」な方向への動きを胚胎している場合があり、そこに丁寧についていくことが心理臨床の本質である、ということになると思われる。こうした主張は、思えば故河合隼雄氏が、繰り返し語られていたものでもある。

 私が見るところでは、著者は自我が成立する以前の自他未分の状態から自他が分化していくプロセスとして、著者の言う「ゼロベース・アプローチ」を論じているようであるのだが、そこで展開されるストーリーは、私の目には、いささか古風な近代的な自我の確立のストーリーへと回収されがちであるように思われる。「事例篇」における著者の丁寧な姿勢を評価しつつも、私はそこに不満を覚える。

 現代社会において、「自我」の確立が困難になっているのは、あるいはむしろ、そもそも「自我」なる「古臭い」ものの確立など求められてもいないように思われるのは、社会のあり方のどのような変化を受けての事態であるのか。現代社会において「主体的である」とはどのようなことであり、私たちはどのようにしてそこへと辿り着くことができるのか。こうした問いに答えていくことに努める姿勢と、何らかの暫定的な見通しを示す努力なくしては、伝統的な心理臨床の営みは今ある社会との生きた接触を失ってしまう危機に瀕している・・・それが私個人の強い危機感である。

 現代の地球環境と社会環境は、もはや私たち自身の手では制御不能な域に入ってしまっているかのようにも見える。環境を人間の都合に合わせて改変してきた私たちは、今や、人間の都合を超えて制御と予測が困難な変化を遂げていく環境の中で生き延びられるように、私たち自身のあり方の方を改変することを強く迫られているようにも、私には思われる。そうした意味では、心身の関係のあり方や、心の成長のあり方について、私たちは何らかのブレイクスルーとなるような新しいモデルの「発明・発見」を求められているのではないかと、私は思うのである。

 私たちが受け継いで身につけてきたもの、大事にしてきたものを、次の世代に伝えるだけではもう間に合わないのかもしれない、とも思う。私たち(の世代)が、次の世代と生産的な対話を育むことができるか、そこで互いに学び合うことから何か新しいものを創造していけるかどうか、私たちの未来はそこにかかっているのかもしれないと、案じられてならない。

 著者が取り組むアプローチ、著者が提案するモデルは、私には今のところ「新しい」ものには思えない。今後に期待したい。ここで言う「新しい」とは、今まで見えていなかったものが見えるようになる、といった意味である。「新しい」仕事は難しい。私自身には無理だと思う。だからせめて、私が知らないところで生まれているかもしれない「新しい」仕事を求めて、あるいはその兆しを求めて、私は本を読み漁るのだろうし(それは最新の著作物の中にあるとは限らない)、そうした「新しい」仕事が生まれる可能性のある「場」を作るにはどうしたらいいか、そのために自分にできることは何かに、日々頭を悩ませ、憤慨し、人望を集められず、むしろ敵を増やして、孤独な闘いへとのめり込むのである(笑)