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#121:鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』

 鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書, 2005年)を読んだ。著者プロフィールを見ると、本書を執筆時点で著者は20代後半とのこと。全体を通じて、議論の突っ込みがやや浅く、タイトルにも使われているカーニヴァルの概念が十分には掘り下げられていないなど、物足りなさを感じないわけではないが、著者の若さを考えれば、それはマイナスとばかりは言えないかもしれない。

 反省的な自己と区別される再帰的な自己のあり方、統合の軸となるような大きな物語が力を失ってネット上のコミュニケーションやデータベースへの参照が基軸となっていく生のあり方への変化という見立ての基本線は、本書刊行当時としても、すでに格別新しいものではなかったかもしれない。しかし、「若者」として括られがちな世代をリアルタイムに生きていた著者の立場から、上の世代による論調に部分的な違和感を持ちながら、別の観点を現在進行形で模索しようとしていることがうかがわれるところに、本書の価値はある(あった)のかもしれない。

 社会のあるべき姿、あるいはもはやあり得なくなってしまったのかもしれない目指すべき理想を論じる前に、現に足元で起きている社会の有り様を描き出すことの必要性を本書の最終盤で説いた著者が、その後どのような仕事を積み重ねていったのか、機会があれば確認してみたいと思う。

 本書を読んで連想したことを、書き留めておく。私たちはどのような「現実」の中で生を営んでいるのか、その「現実」はどのように生み出されているのか、私たちがそれぞれに生きている「現実」を私たちはどのように共有できるのか、あるいは何が共有を妨げているのか。あるいは、社会がある程度安定的に維持されるためにはどの程度の共有が、相互のコミュニケーションが最低限必要になるのか。私たちは自前の「欲望」や「願い」や「感じ方」を立ち上げる機会と時間と場をどんどん剥奪されているのではないか。そもそも「自前の」というのはいつの時代にあっても幻想に過ぎないのか。自分が選んでいるつもりでいることは実は選ばされているのではないか、等々。それらをどのように考え、そのうえでどのように生きていこうとするのか。考えさせられること、考えたいこと、考えねばならないことが、山積みである。