#56:滝浦静雄著『「自分」と「他人」をどうみるか 新しい哲学入門』

 滝浦静雄著『「自分」と「他人」をどうみるか 新しい哲学入門』(NHKブックス, 1990年)を読んだ。これも書棚から引っ張り出した本で、てっきり未読だと思っていたが、本のほとんど最後の方に一箇所だけ赤ペンで傍線が引いてあり、どうやら読んだことがあるようだ。全く記憶にないけれど(笑)

 本書の内容は、前半がもっぱら自我(自分)の問題を、後半が他我(他人)の問題を、哲学の観点から扱うものである。私たちの日常生活の経験にとってはあまりにも自明のことが、哲学の問題として取り組まれると、極めて厄介な問題になることがわかりやすく書かれている。本書が中心的に取り上げているのは、デカルト、カント、フッサールの系譜であり、いずれも「理性」の普遍妥当性を最重要視する立場の哲学者たちである、これらの哲学者たちに、ウィトゲンシュタインやメルロ=ポンティを対置する形で論述が進められている。

 本書を読みながら改めて思うのは、とりわけ近代の西洋哲学の観点から自他の問題や対人関係の問題を考えることの限界である。著者は本書の中で、近代の西洋哲学においていかに他我の問題が軽視されてきたかを繰り返し述べているが、その帰結が現在につながる地球環境の不可逆的な破壊の危機であるように思われる。

 私自身の専門は心理学であるが、心理学が、あるいは心理療法が直面する問題について考えていく上で、こうした哲学に関する著作を読み、考える作業が、少なくとも私にとっては不可欠である。自分がどのような考え方に無自覚のうちに慣れ親しんでいるのかを振り返り、それに代わるどのような考え方がありうるのかを模索していく上で、過去の、そして同時代を生きる哲学者たちの鍛え抜かれた強靭な思索の助けが、私には不可欠である。

 本書を締め括るエピローグは、「日本的『こころ』の概念」と題されており、日本語の「こころ」が、西洋哲学の諸概念と重なり合う部分を持ちつつも、それには収まりきらないものであることが確認されている。例えば、次のような一節。

 われわれの伝統はおそらく、ratioとかVernunftといったものとはかなりかけ離れたところで形成されてきたに違いないのである。(p.196)

  私が取り組んでいる問題も、西洋近代由来の「心理」学や「心理」療法には収まりきらない(収めようとすべきではない)ものであるように思われる。少し前に読んだリードの『魂から心へ』は、現代の心理学は、19世紀のヨーロッパにおいて様々な可能性があった中から、特定の可能性が実現したものでしかないことを、説得力をもって示した著作であった。つまり、「心理」学にさえも、実現しなかった異なる系譜があり得るのだ。

 現在実現しているのとは別の可能性を考えること、でき得る範囲でその可能性の実現を目指すこと、それが私にとっての「自由」の意味であり、私が取り組んでいる仕事の基本的なモチーフなのだと、改めて思う。