#107:大村はま/苅谷剛彦・夏子著『教えることの復権』

 大村はま/苅谷剛彦・夏子著『教えることの復権』(ちくま新書, 2003年)を読んだ。著者の一人、大村氏は、優れた教育実践で知られた元国語教師。恥ずかしながら、私は大村氏の著書は未読なのだが、本書で元教え子(苅谷夏子氏)の追憶の中で描き出され、大村氏自身が対話の中で語るその実践が、一人ひとりの生徒の姿に応じて考え抜かれたものであったことは、本書を読むことでしっかりと伝わってきた。私も、「教える」ということが自分の仕事の一部であるので、我が身を振り返って考えさせられる、反省を促される点が多々あった。

 本書の最後の章は、教育社会学者である苅谷剛彦氏による、手際の良いまとめと、「教えることの復権」の提唱をその内容としている。大筋では異論はないのだが、私の立場からすると、「教える者と教えられる者」「学ぶ者と教える者」の間の関係の問題が取り上げられていない(氏の視野にははっきりとは捉えられていない?)点に物足りなさを感じさせられる。

 教育は(教育に限らないのだが)、関係の中で営まれるものであることを、私は強調したいと思うし、そのような視点から実践に取り組み、展望を開きたいと常々考えている(思うほどにはできていないのだが・・・)。例えば苅谷剛彦氏が紹介している自らの授業例(pp.196-208)にしても、実際にはそれがゼミという場と、その場に組み込まれたメンバー(学生と教員)の間で生じていることに注目したいと、私は思う。そうでなければ、その場で起きていることが授業者のプランとそれを実現する技術に過度に還元されて理解されてしまう危険性があると、私は考える。私自身の専門領域である心理臨床ならびに心理療法の世界で近年生じている問題(と私が考えていること)にも、基本的に同じ図式を当てはめることができる。

 「間で起きていること」は、見えないし、捉えにくい。以前にも同様のことをこのブログに書いたが、私が以前仕事をしていた教員養成・教師教育の職場でも、「間で起きていること」に注目していくことを促す私の方針に対しては、「そんな曖昧なことではなく、具体的に『できる』ことをまず教えなければ意味がない」と同僚から批判を浴びたものだった。それはそうかもしれない。いや、おそらく部分的にはその通りである。でも、それは、あくまで「部分的には」であると、私は思う。

 「間で起きていること」そのものは、目では見えないし(それが個々のメンバーの振る舞いとしてどう現れているのかは見ることができるけれど)、言葉で捉え、記述することもひどく難しい。私たちが直接に捉えることができるものがあるとすれば、それは、私たち自身がそれをどう感じた(ている)か、ということである。そこに注意を向け続けること、そしてそれを状況の理解や、その状況における適切な実践に活用できるようになっていくこと、それが、本書の主題でもある「復権」につながる道筋ではないか、私はそう考えさせられた。