見出し画像

#575:小池靖著『心理療法が宗教になるとき セラピーとスピリチュアリティをめぐる社会学』

 小池靖著『心理療法が宗教になるとき セラピーとスピリチュアリティをめぐる社会学』(立教大学出版会, 2023年)を読んだ。知人を通じて本書のことを知り、読んでみようと購入したもの。いつも頼りの某密林サイトでは新品が購入できず(中古品はあったが定価の倍以上の価格設定)、他の書店系のサイトをあたって店頭取り寄せで入手した。

 著者略歴を見ると、著者の専門は「宗教社会学、心理主義論」とある。タイトルに惹かれて本書を読んでみたのだが、先に書けば、私が想像していたのとは違った内容だった。何が違ったかと言えば、タイトルにある「心理療法」の中身がである。

 著者が関心を持ち焦点を当てるのは「セラピー文化」。私には耳慣れない言葉だが、著者によれば、

 英語圏の研究では、日本で言う心理主義的な文化を指して「セラピー文化」(Therapeutic Culture またはTherapy Culture)という言い方もよく使われてきた。セラピー文化とは、心理学的・心理療法的な実践や思想の広がりを指しており、最も広義には精神科医療も含まれる。(pp.3-4)

1章「セラピー文化とは何か」より

 また、セラピー文化には、大きく分けてアカデミック心理学とポップ心理学という2つの流れがある。大学の心理学科などで正統の学問としておこなわれているものがアカデミック心理学であり、人生論などを扱ったハウトゥものの本(いわゆる自己啓発書)などに代表される「俗流心理学が」、すなわちポップ心理学である。(p.4)

同上より

とのことで、本書はその分類にしたがえば、後者の「ポップ心理学」に主な焦点を当てたものということになる。私は前者の方に関心があって本書を入手したので、“想像と違った”わけである。

 それはともかく。著者は本書で大きく分けて三つのテーマを取り上げている。一つ目はいわゆる自己啓発セミナーのカルト化の問題、二つ目はメディアにおけるスピリチュアリティの取り上げられた方の問題、三つ目は現代社会において「セラピー文化」が果たしている役割である。ここでは、本書の中で私が関心を持った点をいくつかメモしておきたい。

 まずは、社会の「心理主義化」に並行するものとしての「被害者化」への著者の注目である。著者は、いくつかの先行研究を取り上げながら、「被害者化」あるいは「被害の語り」の背景に「自己の聖化」という契機がはたらいているという見解を重視しているようである。それが、現代社会において伝統的宗教とは異なる形でスピリチュアリティが広く受け入れられる傾向を生んでいるという見方を、著者はとっているようである。

 ただし、著者はスピリチュアリティをかなり広義に理解しているようで、“直接感知しえない価値を指向する態度”をスピリチュアルと(少なくとも本書においては)見做していて、“精神分析も無意識を重んじる点でスピリチュアルな傾向を持つ”というような著者の見方に対しては、個人的には首を傾げたくなるところがある(そもそも心理療法についての著者の理解やイメージにも疑問を感じるが、心理療法の専門としているのではない著者の立場ではそのように見えると言われれば、それはそれとして参考になる見方ではある)。

 「被害者化」を「心理主義化」に結びつける言説が存在しうることそのものは、そのような指摘を受けてみればわからないでもないが、その観点が過度に強調されるとするなら、それは私には、より重視されるべき観点に目をつぶることになりかねない、一面的な見方であるように思われる。本書の性格上、著者はそれは承知の上で論を展開しているのかもしれないが。

 著者が本書の締めくくりとして述べるのは、「セラピー文化」は今後衰退に向かうだろうという見通しである。私なりに要約すれば、著者の見解は、伝統的宗教が果たしてきた役割の一部を引き継ぐかに見えた「セラピー文化」は、大量消費社会とネット社会の出現を経て、社会の中で自己を確立していくための便利なテクニックとして消費されており、今後は個人の人生を支える価値としてはその役割を終えていくだろうというものである。

 私には、少なくとも本書における著者の論述の論理的展開には、飛躍と説明が不十分な点が多いと思われるが、“便利なテクニックとしてのみ消費されている”という見解に限って言えば、それははじめに見た「セラピー文化」の二分類のうちの「アカデミック心理学」にも当てはまることだと思う。著者の意図と文脈と、私のそれとは必ずしも十分には重なり合っていないとしても。

 正直に言えば、私は本書に対しては、少なくとも学術的な意図のもとに出版されていると思われる書物としては、不満な点が多い。とはいえ、ところどころに、おそらく著者の意図とは異なる文脈で、私には考えさせられる、あるいは考えるべきと思われる重要な論点を拾い上げることができるという点では、興味をひく本である。

 私の観点では、「セラピー文化」が衰退していくことは問題ではない(と言い切るのは問題かも笑)。「アカデミック心理学」あるいは正統的な心理療法が、一見したところそうとは見えないかたちで、「ポップ心理学」と化してある種の“ライフハック”として消費されていく(いる)ことの方が、はるかに大きな問題であると思われる。何が問題かと言えば、より広い文脈で言えば、“知の技術化”により決定的に失われるものがあるのではないかということだ。より積極的に言えば、“知の技術化”の過程で機能的には不要のものとして捨て去られるものこそが、本質的なのではないかという疑いである。

 それがなんであるかを十分に示すことは私の力では及ばないが、それは“個別性”をめぐるテーマではあるとは言えると思う。あるいは、それそのものの“固有性”とでも呼ぶべきもの(ただし“本来性”ではないことに注意)。“個別性”にしろ“固有性”にしろ、それは他と切り離されたかたちでは確保されず、他との関係の中ではじめて問題になる。“異なりつつ共にある”、“共にありつつ異なる”という問題圏にいかにとどまりうることができるかが、決定的に重要な課題であると、私には思われる。

 多様な他者同士が社会を共に生きるうえで、技術のみでは解消し得ない、技術には回収し得ない課題がある。普段の自分の視覚とは違う角度から、本書を読んで、改めてそうしたことを考えさせられた。