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#100:武田信子著『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』

 武田信子著『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』(ポプラ新書, 2021年)を読んだ。私は以前の仕事の関係で、数年前に著者の講演を比較的短期間のうちに二度聴いた経験がある。その時の印象は、おそらく著者の問題意識と考えは、私のものと重なる部分が多いのだろうなというものであったが、本書を読んでそのことを確認することができた。それと同時に、私自身の経験につながる、ある苦い思いが改めて込み上げてくることにもなった。

 本書の中心的なテーマは、今を生きる子どもたちに対する社会からのマルトリートメントを指摘することである。いや、おそらく「告発」という表現を使う方が適切だろう。

 私自身、数年前まで、わずか10年間ほどであったが、教師教育に関係する仕事をしていた。そこで私が繰り返し出会ったのは、学校教員を目指す若い人たちや、現職教員の多くが、短期的な目に見える成果を求めて、できるだけ効率の良い方法を、効率の良いやり方で身につけようとする姿勢であった(もちろん、基礎基本からしっかりと考えながら学ぼうと努める学生や現職教員とも出会ったが、残念なことに、私の経験ではその数は多いとは言えない)。私の目には、そうした姿勢には、児童生徒や保護者たちを、できるだけ少ない労力で自分(教師)の思い通りに方向に動かしたいという願望が見え隠れしているように思われた。それは、教員志望者や現職教員個々人の問題であるというよりも、そのような方向へと彼らを「追い詰めてきた」社会のあり方、既存の教育システムの問題であるように私には思われたのだった。

 しかし、私が一番驚いた(苦しんだ)のは、そうした彼らの多くに見られる姿勢そのものではなかった。そうした姿勢にそのまま応えようとする、彼らが求める「技術」を彼らにナイーブに教え込もうとする、教師教育関係者が少なくない、いや私の経験でははっきりと言って多数派であることであった。それは、私には悪循環の(拡大)再生産にしか見えなかった。しかし、そうした姿勢そのものを批判的に吟味してみるところから考えることを促すことに努める私のやり方は、当然のことながら(残念なことではあるが)、学生からも、教師教育関係者からも、総じて冷ややかな反応をしか生まなかった(もちろん、ここにも例外はあったことを付言しておきたい)。

 例えば、著者もその積極的な紹介者の一人である、教職実践におけるリフレクションは、私が関わっていたところでも取り入れられ始めたが、私が見るところ、それは「最先端の方法論」として受け止められて取り入れられているに過ぎず、その根本にある哲学の部分には理解が届いておらず、結果的に表面的に、結局は自分たちの実践の現状を肯定する方向にしか活用されていないように見えてならなかった。そして、そうした取り組み方は、ますます現場の多忙化に拍車をかけ、ますます児童生徒と向き合う時間を減らし、ますます児童生徒を理解することへではなく、対象化して操作することへと彼らのメンタリティを方向づけているように見えてならなかった。

 厳しい言い方になることを承知で言えば、彼らの多くは、「児童生徒に寄り添って理解したい」のではなく、「『児童生徒に寄り添って理解することができる』良い教師になりたい」のであり、そうしたことを教師教育の中で求められている(教師教育関係者の多くは求めている)ようであった。つまり、「児童生徒に寄り添って理解すること」は、良い教師になるための手段の一つでしかないようであった。私自身は、それこそが教師の仕事の目的の一つであり、教師という役割の本質の一部であってほしいと願う者である。

 著者は本書の最後に、「本書の執筆は今後のマルトリートメント予防のためのアクションです。」と明言している。ぜひ発信力と発言力をいっそう高めて、具体的な教育政策や子育て政策の提言と、その実現へと結びつけて行っていただきたいと願う。