見出し画像

#548:松村圭一郎著『NHK出版 学びのきほん はみだしの人類学 ともに生きる方法』

 松村圭一郎著『NHK出版 学びのきほん はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版, 2020年)を読んだ。仕事帰りに時々立ち寄る新刊書店の店頭でたまたま見かけて、何となくタイトルに魅かれてひょいと購入した本だが、これが大当たり。

 本書の基本的なコンセプトについて、「はじめに」において、次のように述べられている。

 どうしたら多様な「わたし」や「わたしたち」がともに生きることができるのか。それはあらゆる学問に共通する課題と言っても過言ではありません。その鍵となるのが「つながり」と「はみだし」です(p.6)

 著者は、「つながり」に二つの契機を見る。一つは「わたし」の輪郭を強化する働き、もう一つは「わたし」の輪郭が溶けるような働きであるという。そして、「「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方の側面に目を向ける必要がある」(p.17)と著者は言う。この指摘は、一見素朴かつ単純に見えるかもしれないが、私には含蓄の深い非常に重要な指摘に思える。

 どちらかと言えば、私は「つながり」に「輪郭が溶けるような働き」をより多く見る傾向にあり、そこから自他の違いの認識へと開かれていく可能性を考えがちなのだが、「つながり」そのものに「輪郭を強化する働き」を見る視点はあまり持ち合わせておらず、著者の指摘は新鮮であった。もう少し言葉を足せば、著者は「輪郭を強化する働き」をも「つながり」として見ようとしているのに対して、私はそれを“つながりの持てなさ”として見てきていたような気がする。

 著者は、一般に“つながりが切れている”と見なされるような状況にも、「つながり」のなさではなく、そのようなあり方の「つながり」を見ていこうとしているようだ。著者の考えの背景にあるのは、個に先立つ関係を徹底して重視する思考だ(さらにその背景にあるのは構造主義であり、ヘーゲル的思考、およびそれらへの批判的な眼差しでもあるのだろう)。私も自分の仕事の中でそのように考えることに努めているつもりであったが、著者の指摘は、私にははっきりとは捉えられずにいたものであった。目が覚めた思いである。

 「つながり」が輪郭を強化する働きの一例として、著者が注目するのは、境界が差異を作り出す働きである。著者がこの働きを取り出すのは、サイードによるオリエンタリズム批判の文脈である。それは、要約すると、関わる相手を他者として規定することが、同時にその他者とは異なる自分という自己のあり方をより強固に規定する働きとなるという事態である。著者の表現を借りれば、「他者表象と自己理解は別々の営みではなく、同時に起きている」(p.25;強調は原著者による。ただし、原文では傍点による)ということになる。著者によれば、サイードのこの批判は文化人類学に大きな衝撃を与えたとのことだが、これは確かにインパクトの大きな指摘であると思われる。

 例えば、この指摘を心理臨床の領域に適用するなら、クライエントとセラピストの関係において、セラピストはクライエントをアセスメントするという営みを通じて、あるいは理解に努めるという営みを通じて、無自覚的に、自分自身がセラピストであるという役割を強化する方向へと、相手をクライエントとして、自分をセラピストとして、その役割を固定化する方向へと、そのような形で二人の間に差異を析出する方向へと、その関わりのあり方を再生産しているかもしれない。少なくとも、そのような関係のあり方の可能性、権力の働き方の可能性に敏感な心理臨床家は、日本には少ないのではないかと思う(私の管見の範囲では、富樫公一氏のいくつかの著者にはそうした感性が明示されているように思う)。

 こうした視点からクライエントとセラピストの関係を見るとき、支援をしているつもりのセラピストは、それとは別の機能(あるいは逆機能)を果たしているかもしれないし、現行の国家資格としての公認心理師制度は、そのような機能を暗黙のうちに密輸入する装置として働く(働いている)可能性があることに(そのような意図が制度設計に隠されているとまでは言わないにしても)、心理臨床の仕事に携わるものは細心の注意を払わねばならないと、私には思われる。

 本書を読んで強く感銘を受けたもう一つの点は、フィールドワークと参与観察が持つ意味と可能性である。本書の中でとりわけ印象的なエピソードは、著者が学部生の頃に経験した初めてのフィールドワークである。意気込んで調査に向かった著者は、あらかじめ調べておいた内容と現地の人から聞く話の違いに戸惑う。「 本に書かれた知識が現実にそのままあてはまらない。いま思えば当然なのですが、当時は文献の内容をたんに「事実」として受けとめていたので、現実の複雑さやとらえがたさに困惑しました」(p.41)と著者は言う。さらにフィールドワークを進める過程で、「でも話を聞くうちに、もともと調べようとしていなかったことに興味がわいてき」(p.41)た著者は、予定外の行動に次々に取り組んでいく。こうした経験から著者が気づいたのは、次のようなことだ。

 大学に入るまで、私は学校や予備校でずいぶん勉強して、日本の歴史や世界のことも、たくさん知っているような気になっていました。でも島根の漁村では、日本の「歴史」を何も知らないことに気づかされました。ふつうの庶民がどう暮らしてきたのか、何も知らなかった。そうか、教科書に載っていたのは偉い人たちの歴史だけだったんだ、と。自分が知らないことにも気づいていませんでした。(p.45-46)

 著者の感性の柔らかさが感じられるエピソードである。これに似た経験は、心理臨床の領域においても、多くの初学者が経験する(してきた)ことであると思う。そこで、教科書に書いてある/自分が教わってきた通りにやろうとするのか、戸惑いながらそこで何が起きているのかについて探究を始めようとするのか、ここに大きな分かれ目があると思う。日本の学校教育においては、高校までの授業に使われる教科書には“正しいこと”が書いてあることになっている。それを素直に受け止めて学んできた人たちにとっては(多くの人がそうだろう)、“教科書に書いてあることは、事柄の一面であり、その正しさが保証されている程度には、事柄によって差がある”ということに納得するには、あるいは時間がかかるかもしれない。

 著者が紹介している、マリノフスキーのフィールドワークの様子やフィールドワークについての考えもとても興味深い。このあたりの記述を読んで、私は初めて、サリヴァンが文化人類学に関心を寄せ、文化人類学者たちと交流を持ち、その過程で「参与観察」という概念にたどり着いたことの意味が、心から納得できる気がした。おそらくサリヴァンは、自分が治療の中で取り組んでいた課題と、文化人類学者たちのフィールドワークとの間の親近性を知り、驚き、かつ喜んだのではないだろうか。

 著者は、「現地に行くと、別にそれを調査しようと思っていなくても、目の前で起きるささいな出来事が考えるヒントになります。・・・中略・・・そこで重要なのは、自分が開かれているかどうかです」(p.56;強調は原著者による。ただし、原文では傍点による)と言う。そして、さらに次のように述べている。長くなるが、重要なので引用しておきたい。

 イギリスの人類学者ティム・インゴルド(一九四八〜)は、その著書『メイキング』で、人類学の参与観察は対象についての研究ではなく、相手とともに考えるプロセスなのだとはっきり書いています。そこで互いに変容することのほうが、客観的なデータを収集するより大切なのだ、と。でも、その「変容」が起きるには、他者を調査対象として固定するような見方ではなく、相手から学ぼうとする姿勢が必要になる。
 自分たちの知識や 枠組みを相手に押しつけず、相手と同じ場に身をおき、相手から学ぼうとする姿勢で「わたし」を開いておく。すると、その「つながり」はおのずと互いを変容させていく。その変容こそが「学び」なのだとインゴルドは言います。(p.56-57;強調は原著者による。ただし、原文では傍点による)

 上に引用した文章で述べられていることは、心理臨床の仕事においても、決定的に重要なことであると、私は考える。参与観察においては、「わたし」の「変容」が必然であること。このことの重みは、しっかりと受けとめられる必要があると思う。

 本書に出会えて本当に良かったと思う。仕事で接する若い人たちと一緒に、改めて本書をじっくりと読む機会を持ちたいと思う。