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アメリカの夢



ブルース・リーの最後の作品「燃えよドラゴン」で
こんな言葉が僧侶から発せられている。

「本当の敵はいつもと違った像=イメージで現れる。」

また、そのイメージという敵に立ち向かうには、
己を無にしなくてはならない、
とブルース・リーは言う。

その場面のシナリオだけは、完全にブルース・リーのオリジナルである。

これに似た言葉が劇中にもう一つある。
「Fighting without fighting=闘わずして闘う戦い方」
予め争いの流れを読み込み、
己の意志のコントロールにより、戦いを回避する方法。
回避すると共に、相手に勝利する方法である。

相手の怒りの矛先、理由、心象風景を想像できるならば、
ほとんどの人間がその争いを即座に終結できる。
(詳しくは、ビデオででも実際に見て欲しい)

前者の言葉は、1973年の映画の封切りの際に、
ワーナーブラザースによってカットされてしまった。
そのため、2000年のオリジナルエディションが公開されるまでに、
その言葉が評価されることは一切なかった。
というより、ブルース・リー自身が映画で言わんとしていた、
“闘うことの哲学”が抹殺されていたと言っていい。

アメリカという国のマーケティング感覚では、
その哲学は、まさに邪魔者だったのかもしれない。
だが、やはりそれが、

アメリカ、あめりか、AMERICA。

鏡を散りばめられた密室で、宿敵とブルース・リーが戦う場面。
敵は、あらゆる角度から鏡に映った幻影として現れる。
その幻影に向かって、彼は拳と蹴りを打ち込む。
すべてが空を切る。
そして敵は、錯綜する像の一つに紛れ込み、
彼に攻撃をしかけてくる。

ブルース・リーがそこでなしたこと、
それは部屋中にあるいくつもの鏡を全てぶち壊すことだった。
一人の人間から生まれる様々な角度の“像=イメージ”を
まず先に破壊することからはじめ、
最後に相手の実在を確認する。
そして、的確な本当の実像に対して、攻撃をしかける。

そこで、映画の冒頭に発せられる言葉が生きてくる。

世界中にカンフーブームを呼び起こした映画“燃えよドラゴン”は、
そんな非常に深い意味をも含んだ、哲学的な作品だったのだ。

本当に相手の動き、心を読み込んだ時、
自分は無になり、敵も存在しなくなる。
そんなことを言っていたブルース・リー。

彼が東洋と、西洋を越境して、説得力をもった人気は、
映像にひた隠された“存在することの哲学”に裏打ちされてた。
今、本当にそう思う。

誰もが、他者より強くありたい。
だが、できれば争いなどないほうがいい。
希望、夢のほとんどが自己矛盾を含んでいる。

たった3分程度の台詞の場面を削除したために、
“燃えよドラゴン”のストーリーは、
ただの007の肉体的格闘版になりさがってしまった。

アメリカのマーケティング主義の映画人は、
もしかしたら、生理的にこの場面を嫌ってしまったのかもしれない。

アメリカ、あめりか、AMERICA ,

マイノリティー差別制度を完成し、民族紛争の起源を作り、コカコーラを、ジャズを、
ロックンロールを、その他あらゆる夢、あるいは幻想を世界中に撒き散らしてくれた
人くくりで国といいがたい、不思議な幻想国家は、
あらゆるイメージを詰め込んだ宝箱であり、武器貯蔵庫である。

恋焦がれ、一度はマラソンで駆け抜けた
僕にとっての花の都、永遠の憧れ、
ニューヨーク・マンハッタン、
そこに凛然とあった近代の富の象徴のビルがぶっ壊れた。

おそらくそれは、経済としての夢を撒き散らす、
アメリカ、あめりか、AMERICAの
万華鏡の中の小さな鏡の一部が壊れたに過ぎない。

敵はまた違った像=イメージとして現れる。
それは、己のもつ鏡に反射した像である。

像を断ち切るには、やはり己の像を映し出すあらゆる鏡を、
一度破壊しつくすしかないのかもしれない。

鏡よ、鏡。
世界で一番美しい人は?
すべての人が自己が美しいと思いたい。

ブルース・リーは超一級のナルシストだった。
最後の鏡が自らの肉体にあったなどとは、
皮肉である。

世界中にテレビという鏡が存在する。
それは映画ではない、ドラマではない。

肉体が滅び、命が奪われている、実像である。
最大の敵とは、やはり己である。

2001.9.16.
ニューヨーク911より数日後

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