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雑記 爆発関連への感想

バイト先で歩きながら放屁を試みたところ、「実」というかそれになるだいぶ前の液体が肛門から噴出してしまうという小事件が起きた。大だけに。逆に。最初に自分から出た感想は「そうきますか」だった。僕はピンチに強い人間なのでこういう時はかなり冷静に頭が働く。なので退勤時間まで待機、現状維持、キープ、という策を立て、涼しい顔で乗り越えることができた。
仕事が終わって自転車のサドルにドシっと座ったとき「つめたっ」って思ったけど、それと同時にもう全てどうでもいいというか、どうなったとしても誰にも迷惑がかからないし、オフィシャルな自分を放棄することへのGOサインが出た感じがして多少の心地良さがあった。

岡本太郎美術館に行った。通っていた大学の真裏にあるので、そこまでの道のりが懐かしかった。コラボカフェのようなものがあり「爆発パンケーキ」とか「爆発オムライス」とかがあるのかと思ってメニューを覗いてみると案外普通だった。
「岡本太郎と食事」的な企画をやっていてかなり見応えがあった。「一枚の絵画が部屋に置いてあったらそこには緊張感が走るが、そうではなく、生活を芸術にするべく食器を作りました私は」みたいなことが書いてあっておもろかった。岡本太郎が民俗学や、縄文に惹かれたのも「美術品」ではないことにくらったからということが理解できた。展示室を抜けるとすぐにグッズ販売をしている店が現れ、岡本太郎が描いてきた絵が使用された、トートバッグ、缶バッジ、マグカップ、バスタオル等々があり、これも生活を芸術にということと関係があるのかどうか少し悩んだ。彼は市販の酒のおまけに付いてくるコップもデザインしたりしていたし。

単純に物は言いようなのかな?とか考えていたのだけど、ふと、絵を見ている時に40代くらいの夫婦が隣にいて、男性の方が「こんなの俺も書けるよ」と永遠と言っていたのを思い出した。「こんなの俺も書けるよ」は別にどうでもいいんだけど(単純に絵画を見た時に思いつく一番手前の冗談を、なんの躊躇もなく口に出せるような人に思えることがない)それより奥さんが笑わなくなるまで、奥さん的にそのボケの味が完全にしなくなるまで「こんなの俺も書けるよ」を連発してしまうその態度にかなりイライラした。でも思ったのが、重要なのはテキストというか、文脈というか、なぜそれを書いたのか、どういうつもりでこれをしたのか、とかその部分が超おもしろい&重要で、例えば「生活を芸術に」という思想が結果的に金稼ぎに繋がっていたとしても、別にそれは大した問題ではないということに気が付いた。なにができたか?ということだけではなく、どういう考えでそれに対してどれくらいマジだったのか?ということもおもしろいのだと、おっさんにも早く気付いて欲しい。結果的に「こんなの俺も書けるよ」というつまらない冗談が脳内で出来上がってしまったとしても、俺が見ているのはそこではなく「その冗談どこまでマジで言ってる?」「どれだけここで笑いを取るつもりで言ってる?」であり、おっさんは笑いがこなくなるまで何の工夫もなくただのbotみたいに同じ台詞を繰り返したので、やっぱりつまらない人だなと思った。

あと岡本太郎が定期的に開いていた「実験的茶会」ってのがおもしろくて、仲間を呼んで岡本太郎が料理を振る舞うんだけど、そこで「生肉に生卵をかけた料理」を提供していたと書いてあって笑った。他にも岡本太郎の父親が途中から妻を菩薩として接していたとか、めちゃくちゃおもしろエピソードがありまくったんだけど、今は疲れているので今日はここら辺で終わり。

5月の二週目から養成所ライブが始まる。一番しんどいのがこのちょうど一週間前くらいで、当然いつものように追い込まれているのだけど、もう毎回同じ精神状態になることが阿呆みたいだなと思ったので、最近はネタを作っている時のメンタルの変化だけを事細かに書く専用の日記をつけていて、自分のメカニズムを知ろうと試みている。そうすれば、あ、この不安感って結果的に大丈夫なやつだ、とか、これは今までにない焦燥感だからヤバいな、とか分かってくるはずだ。精神のゆらぎに関しては自分の中にある最大限の知性をぶつけて解決していきたい。



落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。