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人身事故による真夜中の大行進

皆が一斉に電車からに降りたのを見て、イヤホンを外した。「人身事故による影響で~」という駅員からのアナウンスを聞いて、ある程度の覚悟をした。
電車は今から一時間半後にやってくるという話だったが、結果的にはあれから三時間は動かなかった。じっと待つことが苦手な俺は四時間半以上かけて自宅に向かって歩いた。
緊急事態宣言により店がどこもかしこも閉まっていたため、電車を待つ以外にはとにかく進むしかなかった。タクシー乗り場やバス停は大行列。俺のように歩いて自宅へ向かう人も大勢いた。素性を全く知らない人間同士がたった一つの原因により、同じ目的を持って一列になって歩く。遠足のようで少しわくわくした。歩きながら「真夜中のピクニック」という作品があったことを思い出した。

飛び込み自殺が起きた瞬間その場所にはネガティブな磁場が発生する。その磁場は、線路の上りから下りまで一直線に一気に拡がる。すると人々は「迷惑だ。」「勝手に死ねよ。」などと言い始める。対象が「もう死んでいるから」好き勝手に言える。
そこに思いやりや配慮などは一切ない。想像力を自ら欠如させるのがコツなのだと思う。俺は父親が自殺をしているので多少は思いやることができる。父親が死ぬ瞬間の時「何を思ったか」ということを脳内で擦り切れてしまう程に何度も何度も想像しそれを再生した。これは想像の範囲を出ないが、恐らくフラットに、歯を磨く感じで死んだのではないかと思う。それは恐ろしくもとても悲しいことだ。父は想像力が足りなかった。「迷惑だ。」「勝手に死ねよ」という言葉をいとも簡単に使う人間と全く同じくらいに。俺が自殺することがないと自分で分かるのは、人身事故が起きても腹が立たないからだ。

飛び込み自殺で死んだ人間に同情しないのは何故なのだろう。一人の人間の死によって帰るのが遅くなることが、人生に一度や二度あったってよくないか。今日人が命懸けで死んでいるのに、無関係みたいな顔をできるのはどうしてなのだろう。そんな世界はダサいんじゃないかしら。
飯を食っている時に救急車のサイレンが聞こえて、平然とした顔で白米をかっこんでいる自分をたまには恥じるべきだ。

途中で何度もサラリーマンたちが路上喫煙しているのを見かけた。いつもだったら自宅で吸えている時間だろう。普段人気のない橋を渡っていると、女の子が夜景の写真を撮っていた。山道のようなところに入ってしまい迷子になっていると、遠くの方を若い女性がスマホを見ながら通り過ぎて行った。彼女もまた初めて通る道なのだろう。俺は彼女に付いていくことにした。事故が起きたと思われる場所にはパトカーが何台も止まっていた。

今日見ず知らずの人間が自ら死んだ。お前のせいで、ヤニが切れ道端で煙草を吸う人間がいたり、山道で一人の若い女性が二十七歳男性(俺)に後を付けられる羽目になった。皆、お前のことをなんとも思っていない。がしかし、お前が起こした行動によって、何百人、もしくはそれ以上、何千人の人達がいつもと全く違うことをした。例えばそれは橋の上から夜景の写真を撮ったりだとか。俺とお前は本当に無関係なのか?
自殺も命懸けだということを俺は知っている。何故なら半端な俺にはできないからだ。お前が死んだ2月4日、お前が真剣だったから、俺は平気で四時間半歩いた。


落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。