見出し画像

1月何日かの日記

朝早く起きて作業してからバイトに行くという日課を目指しているのだが、中々うまくいかない。眠る前に煙草を吸う習慣があるのだが、それを辞めることによって寝起きの瞬間からニコチンが切れていたら、キッチンまで体を引きずりながらでも向かえるのではないか、布団から出れるのではないかと思って試してみるも、眠る前にまず煙草を吸ってしまう。どうしたものか。
最近は中原昌也の「知的生き方教室」を読んでいる。おもしろすぎる。
最初に出てくる男はとある雑誌を読んでいて、その中に出てくるAV女優とインタビューアーの会話

「ダムが洪水したみたいでしたよ」
「ダムが洪水したところ見たことあるんですか?」
「ないです。あ、でも私911なら現場で見てたんですよ」
「へ~そうなんですか」

みたいなやり取りに、地に足のついた何かを感じる。彼は自分が純文学で学んだこととは弱者を後ろから鉄パイプで殴りつけることだという。杖をついて階段をあがる老婆を上から突き落とすことで、文学的な達成感を感じる。街中の動物を殺しまくるのは彼がサディストであるから、とかそういったことではなく、自分の文学を全うするための単なる生贄だという。
つまりなんというか、ここからは俺の解釈も入るけど、理性を超えたものからの行動、衝動にひたすら純粋である人物に純文学的な何かを感じ、それを単に書きたいから書く、というのは、そういった連中の受け皿になることを認めることになる、みたいなことをここでは言っているのではないかと思った。
保坂和志さんがなにかの本で書いていた「ネガティブな磁場」というのはこの小説の主人公が感じた文学的達成感のようなことを差すのではないだろうか。

ここ数年俺は、自分の中の合理的な部分と本能的な部分の間で窒息死しそうになっている。例えばバイト先で頭のおかしいクレーマーと対峙した時、小説内の俺であれば客を木っ端みじんにしてしまった方がそれっぽくなるという考えから、突然脇から疾走してきた馬に客を轢かせたりするのだが、現実は「消えろ」と思いながら、合理的な思考をふんだんに駆使して、頭を下げ、その場をやり過ごすのだけだ。
時代感、みたいな話はあまりにも大雑把な感じがして好きではないけど、やはり後者の方が本当だと思う。
純文学における人間が抱く「ネガティブななにか」というものは、ある時から止まってしまっているのではないかと最近考えている。
だから「知的生き方教室」にでてきた冒頭の男は、雑誌のインタビュー記事にリアリティーを感じたはずなのだ。

コロナがかなり鬱陶しい。病院の売店で働いているので、それなりのことは起きている。今のところ大丈夫だけど。
うっすら漠然とした「死」を感じ続けている、というか、いつだって背後にある、みたいな感覚は親父が自殺してからずっとあるもので、コロナが登場したとて、俺にはとて、なのである。そう思って、踏ん張る。踏ん張り温泉。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。