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わが子の体験と高齢者のプライドの狭間で
1.子供の体験と高齢者のプライド
先日、我が子の体験を優先すべきか、高齢者のプライドを尊重すべきか、非常に迷う場面に遭遇した。結局、僕は高齢者のプライドを優先してしまったのだが…。
2.子供の体験は貴重な学びの場
娘(8歳)と、某ドラッグストアに行った時のこと。
娘はそのストアの給水コーナーが好きだ。
会員証認証とタッチパネル操作で、専用ペットボトルに給水できるようになっている。
この一連の給水行程が気にいっている娘は、自分で給水したがる。
僕は後ろで見守っている。
最初に給水しようとした時は、会員証認証とタッチパネル操作はうまくいったものの、専用ペットボトルが少し傾いており、うまく給水ができなかった。
後日、2度目の給水に来た時、娘は前回の反省を踏まえ、うまく給水できるはずだった。
子供達の多くがそうであるように、娘も多くの試行錯誤を経て、成功体験を積み上げてきた。だから、子供にとって(ひょっとすると大人もかも知れないが)「やったことないことをする」ことがどれだけ大事か、分かる。
変に大人が介入するより、沢山のことを学べるかも知れない。
僕には、無事給水を終え、誇らしげにこちらを振り返る娘の姿がすでに目に浮かんでいた。
すでに給水中だった高齢女性の後ろで、大事そうに専用ペットボトルを抱えた娘が、自分の番を待っていた。
3.喪失体験が増えてくる高齢者の、プライド
給水が終わった高齢女性は、娘の方を振り返り、一礼すると、サッカー台に置いてあったトートバッグに、給水を終えたばかりの専用ペットボトルを入れた。
ちょうど娘が会員証認証を行おうとしていた時、その高齢女性が娘に近づいてきた。
「(給水の仕方)分かる?」
娘にそう問いかけた高齢女性は、娘の「はい」という返事にかぶせるように、娘の手から会員証を取り上げた。
会員証認証が終わり、給水口が開き、「洗浄水注入開始」のボタンが表示されても、高齢女性はその場を離れることはなかった。
「はい、それ(専用ペットボトル)入れて」
娘は慌てて専用ペットボトルを挿入したが、ペットボトルのフタをしたままだったので、洗浄水は空しく弾かれてしまった。
娘には娘の段取りがあっただろうから、高齢女性の介入によって、その段取りが崩れてしまったので、無理もないだろう。
洗浄水が弾かれてしまった様子を見た高齢女性は、
「…もう洗浄できないから、フタを取って、入れて」
と、少し不機嫌そうに言った。
娘は言われるがままにフタを取り、あとは、高齢女性の独壇場だった。
娘は一度もタッチパネルに触れることなく、給水を終えた。
そして、2ℓの水が入った、表面が濡れた専用ペットボトルを抱えた娘は、その高齢女性に向かって、
「ありがとうございました。」
と、一礼し、口を一文字に結んで僕の方を振り返った。
この高齢女性にしてみれば、親切心からの行動だったのだろう。「小さな子供に教えてあげるのが自分の役目」と、思ったのかも知れない。
ひょっとしたら、日ごろは、
「おばあちゃん、私がするからいいよ。」
「そんなことして、転んだらどうするの?」
「1人で勝手に出かけないでね。」
などど、家族から言われているのかも知れない。
もし仮にそうだとすれば、この高齢女性は、自分の役割、自己効力感、尊厳を満たす場を、誰かに奪われているのかも知れない。
僕は、一連の給水行程を後ろから眺めながら、それを思っていた。
だから、この高齢女性に対して、
「大丈夫です。娘は、できますから。」
という一言が、言えなかった。
そう、この高齢女性の心に土足で入り込んで、むき出しのプライドに触れる気になれなかった。
4.尊重されるべき子供の体験
僕は、モヤモヤした気持ちを抱えながら、娘から専用ペットボトルを受け取った。
たった2kgの水が、とても重く感じられた。
自宅に着いて、どうにもいたたまれなくなった僕は、ソファーでYouTubeを観ていた娘に、
「さっきはごめんね。『大丈夫です、できますから』って、あのおばあちゃんに言ってあげればよかったね。」
と、言った。
娘は、「フッ」と軽く苦笑いしただけだった。
僕は妻に、何があったか話して聞かせた。
妻は、
「…まあ、そういう人との交流も大事だからね。」
と、頬を緩ませながら言った。
僕は、「うん」とうなずきながら、自分の中のモヤモヤ感の正体を探った。
その正体は、子供の貴重な体験を奪った高齢女性に、忖度してしまった自分の弱さに対する自己嫌悪だった。
5.尊重されるべき高齢者のプライド
前期高齢者ともなると、獲得体験よりも喪失体験が増えてくると言われている。もちろん、例外はあるだろうし、僕も例外を知っている。
昔は、高齢者は色々な知恵を後進に伝えるという重要な「役割」があった。
今でもその側面は失われてはいないだろうが、インターネットの普及などで、知恵や知識は必ずしも高齢者からもたらされる必然性はなくなった。
クリックさえすれば、あらゆる知見が手に入るようになった。
「1人の老人が死ぬということは、1つの図書館がなくなるということである」
そんな諺がある。
なるほど、人生劇場という視点で言えばそうかも知れない。
しかし、知識量として、1人の老人は、ビッグデータには敵わない。
色々なものを喪失していく過程で、高齢者は、嫌でも
「自分の存在意義って何だろう?」
というシビアな自問自答に直面する。
そんな高齢者は、自己効力感を満たしてくれるチャンスに敏感になっているのかも知れない。
たまたま、今回の高齢女性にとって、娘の給水は、そのチャンスだったのだろうか。
「ただの親切心でしょう?自己効力感を求めるとか、考え過ぎじゃないの?」
あなたはそう思うかも知れない。
しかし、よく考えてほしい。
高齢女性が「(給水の仕方)分かる?」と聞いた時、娘の「はい」という返事を聞かず、会員証を取り上げたのは、なぜだろうか?
娘に給水行程を口頭で教えずに、高齢女性自ら完結してしまったのは、なぜだろうか?
それは、本当に純粋な親切心だからだろうか?
僕が思う親切心というのは、「困っているのを助ける」ことであり、
「相手ができることまで、先回りして奪う」ことではない。
もちろん、親切心もあってのことだと思う。
それを否定するつもりはない。
僕が疑問に思っているのは、あくまで、その親切心の「純度」についてだ。
親切心に、プライドが混じっているのを感じたのだ。
だからこそ、僕は高齢女性に対して、
「娘はできますから、大丈夫です。」とは言えなかった。
僕にはそれが、高齢女性のプライドを蹂躙することに思えたからだ。
6.好奇心と親切心
僕もそうだが、娘も好奇心が旺盛だ。新しいことに対して、慎重な面もあるが、「やってみたい」「試してみたい」という気持ちは、大いに持っている。
何かに挑戦しようとする時、出たとこ勝負に近いことをする場合もあるが、好奇心に突き動かされた自分の気持ちを抑えて、熟考しながら試行することも多い。
その様子が、時として、
「困っている」「及び腰になっている」
という風に、人には見えることもあるらしい。
そんな時、親切心から助け舟を出してくれる人もいる。
ただ、それを僕らは望んでいない。
鴉の『巣立ち』の歌詞を借りれば、
「招かれざる援護射撃に足を撃たれ」た気持ちだ。
7.両方満たす方法はあるのか?
今回の給水事件のように、お互いの好奇心と親切心が拮抗する場面で、
どのようにすれば最善なのか?を考える。
考えるが、実際の場面では、親切心(その純度はどうであれ)を擁護してしまうことが多いような気がする。あくまで、僕個人に関して、であるが。
あなたの最適解はなんだろうか?
是非、聞かせてほしい。
8.介入されることも子供の体験
僕自身の内面に存在する、好奇心と親切心のせめぎ合いの中で、1つの答えに辿り着いた。
それは、妻の言った一言である。
「…まあ、そういう人との交流も大事だからね。」
そうなのだ。
給水も体験なら、その体験に介入してくる人物との交流もまた、
体験なのである。
娘はこの体験から、何か得るものがあったに違いない。
それは、相手の自己効力感よりも、自分の好奇心や達成感を優先するため、
親切心に感謝しつつも、丁重に、かつ毅然と「大丈夫です。結構です。」と
言えることの重要さかも知れないし、
相手の自己効力感に付き合い、自分の気持ちを多少抑えつつも、相手に
「ありがとうございました。」
と言える、社会適応的な言動なのかも知れない。
妻の一言のおかげで、僕のモヤモヤ感は、かなり軽減したのだった。
9.拒否されることは喪失体験?
では、高齢女性の立場になって考えた時、娘がもし
「大丈夫です。できます。」
と返答した時、それは高齢女性に対してどんな体験になっただろうか?
娘も言い方にもよるが、ちょっと寂しいというか、残念な気持ちになったかも知れない。
親切心でコーティングされた自己効力感を、娘から突き返されて、ムッとしたかも知れない。
これは完全に理想論になってしまうが、願わくば、
「大丈夫です。できます。」
という返答を受けて、
「いらぬお節介はせずに、見守っていて、本当に困っている時に、助け舟を出したらいいか…」
という風に思ってもらえるといいな、と思う。
そうなるとそれは、喪失体験ではなく、獲得体験だからだ。
10.揺れ動く2者を観る眼
自分の体験に介入してくる他者との関係、それもひっくるめて貴重な体験だとするなら、今回と似たようなシチュエーションに遭遇した場合、好奇心と親切心、体験とプライド、どちらに与するのが正解なのか?思い悩む。
僕が「娘はできます。大丈夫です。」と言うことも、また一つの体験を形成する。
それは、僕だけでなく、娘、高齢女性、すべてにおいて。
好奇心と親切心、体験とプライド、そして、正解と不正解…。
僕は今回、こんなにも揺れ動く貴重な「体験」をした。
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