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ニトリのお茶碗が割れた


 引越した部屋で食器棚もどきとしてとりあえず皿たちを並べていたシンク上の戸棚から、とある春の日のお昼前に、するんっとお茶碗が転げ落ちた。背伸びをしたわたしの左足側の床にパリーーンと真っ二つになったそれがため息をつくみたいに明後日の方を向いてわたしとは目を合わせてくれなかった。
「わ、割れるんだこれ〜…?!」というのが先ず感想で、その次に「あぁ、今おおちゃくをしたなぁ」と反省した。

だってニトリで300円くらいで買ったお茶碗だった。
ハンガーを買い足すために出かけてふと目に入った食器コーナーで、コンビニのレジ横のお饅頭を手に取るくらいの気持ちで、なんの気無しにカゴに追加したお茶碗だった。
それまで白い平皿とスープ皿しか持ち合わせていなかったからだいたいレトルトカレーくらいしかおいしく食べられなかったのだけど、これで先週届いた一号炊き土鍋も喜んで活動させられると意気揚々とるんるんで持ち帰ってその戸棚に並べた。

それからはほんとうにほとんど毎日使っていた。お茶碗がなかった頃にどうやって食事をしていたか思い出せないくらい、あたりまえに、使っていた。

 「お茶碗を使うってなんという贅沢だろう」割れたお茶碗を拾い集めながら思った。その割れたお茶碗を捨てる気持ちになれなくてビニール袋に入れて戸棚に戻す。

「でもなぁ、金継ぎをするほどではないかぁ」

気に入ってはいるけれど、金継ぎをしてまで使い続けたいかと聞かれたらそうではない。金継ぎの他に修繕方法は知らない、というか金継ぎだってたぶんよくわかっていない。なんならこれからニトリに行けばきっと同じものを手に入れられて割れたことをなかったことにできるかもしれない…いや、そういうことでもないよなぁ。
心の中でそのお茶碗についてぐるぐると考えを巡らせたけれど答えは出ないまま、ただお茶碗のない生活が戻って来た。

 それから何ヶ月も経過したある日、祖母の家でごはんを食べている時だった。おばあちゃんの手に収まるお茶碗が知らないお茶碗になっていると気がついた。
野菜を買いに出かけたイオンモールの通路に雑多に並ぶのを見かけて購入したらしい。
「その桜の柄が気に入ったの?」と訊ねた私に「前のよりも軽いのが良いじゃんねぇ」と言ったそれはおばあちゃんにとって何代目のお茶碗になるのだろうかとぼんやり考えながら、おばあちゃんがたいてくれた里芋の煮っ転がしに箸を伸ばした。左手にはグレーに青と白のラインが入ったわたしのお茶碗を持っている。
祖母はきまぐれにやってくる孫の専用お茶碗を食器棚に並べてくれているのだ。
祖母の家には私がそこにいていいという安心があって、それはもしかしたら私用のお茶碗を用意してくれているということなのかもしれないと思った。

その夜、仏間の畳に敷かれた布団に入った私はビニール袋に入ったまま戸棚に眠っているあのお茶碗を頭に思い浮かべた。
「わたしのお茶碗、かぁ。」
自分専用のお茶碗というものはきっと誰しもが持っている。今この時点で使うことがなかったとしても、産まれてから今日までの間の一瞬も「わたしのお茶碗」を持ったことがないという人が、日本の文化の中に居るだろうか?
「他人のお茶碗って知らないな…」
ハッとした。
食事を共にする家族のもの意外、他人のお茶碗をひとつも見たことがないのに「わたしのお茶碗」というものはみんながあたりまえに待っているものであると、信じて疑わない。たとえば夜になれば陽が沈んで星空が広がることのように、お茶碗があまりに当たり前の存在で誰しもが「わたしのお茶碗」を持っていると思っている。
「お茶碗って謎だ」
あなたのお茶碗を見せてもらえませんかと聞いてみるというのは許されるかな、なんてことをふわりと思いながらこの日は眠りについた。

翌朝、祖母が台所に立つ音で目が覚めた。混ぜご飯をよそってくれたわたしのお茶碗を受け取りながら、また祖母に会いに来ようと思った。

 GWの連休を過ぎた頃のわたしは、働き方に迷っていた。外食ばかりしていたせいかお茶碗のことなどすっかり忘れていたとある休日、セレクトショップにふらりと足を運んだ。作家さんの器やお香、キャンドルなど、日常の質をひとつ高めてくれるものが所狭しと並んでいるそのお店は柔らかい笑顔の店主が出迎えてくれる。

「久しぶりやなぁ」
三重弁で笑いかけてくれたその店主にはどうしてかいつもするすると自分の話をしてしまう。「仕事を辞めようと思って」と言った私に「え!なんで!」と大きなリアクションをくれたので、まだなにも決まっていないけれど生活を変えたいと思う、なにをしてもいいならフランスという場所に暮らしてみたいと小さく言った。
「なんでフランスなん?」
「美術館に通い詰めたいからです。」美術に詳しいわけではないけれど美術館という場所が好きな私は学生の頃からいつかフランスに長く滞在したいと心の隅に置いた気持ちがあった。「水は、大丈夫?」と言ったその人の表情を見て「水より皿が怖いかも。」と不意に言葉が出て来た自分に驚いた。
誰がいつ何を乗せても成り立つあの白いプレートが並ぶ食卓を想像したとき、わたしの中にむくむくと不安な気持ちが積み上がるのを感じた。「そう思うとお茶碗って特殊よなぁ」すぐ隣の展示台に並ぶ作家さんの器を眺めながらその人が言った。

「あ、またお茶碗だ」

度々引っかかるお茶碗という存在と向き合ってみたらどうかと言われた気がした。あの日祖母の家でふわりと考えた時間と同じ心地がして、私は動き出さないといけないと思った。
「また来ます」と告げて歩き始めた帰り道はぱらぱらと雨が降っていた。だんだんと間隔が狭まる雨粒を避けながら、私は走りたいと思った。
「いま、とてもわくわくしている。」

 久しぶりに戸棚の奥のビニール袋を取り出してみた。割れたあの日に感じた「気に入っていた」という気持ちはお茶碗そのものではなくて、お茶碗が手元にあるという生活のことなのかもしれない。わからないけれど、わたしの中をぐるんぐるんと浮いたり沈んだりしている“お茶碗”という存在を、いま手に掴みとって大切にしたいと思った。
どんなお茶碗を使っている?と聞いてみたい人……そう考えたらすぐに何人もの顔が浮かんできて、ついに「あなたのお茶碗見せてください」と聞いてまわることをはじめようと決めた。

お茶碗をきっかけにしたら、きっと変だけどきっと面白い話がたくさん出て来るだろうな。止まらないわくわくをまずは身近な人にぶつけてみることにした。

→vol.1 渡部さん

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