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電車の窓の外に広がる人生の予告編

わたしの趣味は、あらゆる乗り物で
窓際に座るということだ。
これは物心ついた時からずっとで、執拗に窓際を好む。前世と何か関係があるのではなかろうかとすら考える。
あの大パノラマを眺めて
目から入る情報を享受できるこのイベントは
わたしにとっては旅行のメインイベントなのである。

雲の隙間から差し込む太陽の光、
その光を浴びるために家の屋根の角度は一定だ、
突然の狂気じみた数のソーラーパネル、
農家の方が大切に育ててるお野菜、
お墓参りしにきた家族、
手書きの看板、
キラキラ輝く雄大な川、
初めて知るふしぎな地名、
信じられないクオリティのかかし、
味のある駅のホームをみて利用する人の生活を想像する、
田んぼの真ん中の道を犬と散歩するおばあちゃんの今日の夕飯なんだろうなぁ、
何故このエリアの一戸建ては瓦屋根が多いのだろう、
ああ、このあたりの車のナンバーは熊谷なのか、
玄関でダウンベストを着てたばこを吸うおじいちゃん、
そして、、
都会に近づくにつれて無機質な建物が増えてゆく。

わたしはその景色を横目に、特急列車で一瞬にして通りすがってゆく。
なんだか後ろ髪を引かれる。
そこにはそれぞれ、わたしが知り得ないかけがえのない物語があるからだと思う。
生きている間にこの目に焼きつけたすべての物語を知ることはできないことはわかっているし、
その切り取られた静止画のような一瞬が全てではないこともわかっている。
けれど、窓際に座れば、
個別の物語の予告編は観られるのである。
ふつうに生きていたら絶対に関わることのない人の生活を窓際から覗くことができる。
そこからまた、新たなる物語が始まったりするのが、わたしにとって人生が面白い所以だ。
現にわたしは、博物館や美術館、喫茶店、ビストロ、アンティークショップ、公園も、
非常にアナログではあるが
窓から眺めた景色の情報を元に行くことが多い。

せっかくの、新しい物語の予告編を
大パノラマで観ることができるのに
通路側に座るのも、
目を瞑るのも、
カーテンを閉めるのも、
勿体なくて仕方ないのだ。

感度が高いだけなのかもしれない。
でもそれでいい。
窓際という特等席に座るだけで、
この不思議な予感に包まれるのが
わたしだけの特権なのであれば
むしろそれの方が良い。

窓というものは、
きっとこれからもずっと
わたしにとっての希望なのだ。

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