お茶あれこれ237 2017.0920~1007

1. 稲葉川畔
朝、庭を出る時には気付かなかった。車庫から帰って来る時、金木犀の小さな蕾が全体に付いている。まだ色は薄緑、香りはない。昼頃、窓から見ると、蕾の色が少し黄色くなって来た。夕方金木犀の下を通ったら、あの香である、色も更に変わってきている。翌朝、新聞を取りに玄関を出ると、香ってくる。ここの20軒ほどには大小の金木犀があり、時期になると辺り一帯にその香りが漂う。歩いているとわかる、香りの濃淡が風とともに波のように寄せてくる。

友人がコピーしてくれた古田廣計の史料に、最近書いた桐谷和尚の関連を見つけたので補足したい。宗鑑公(岡藩中川家初代秀成)は、お茶屋を建築中であった慶長17年(1612)秋に亡くなられ、それまで城下に禅宗寺院が一か所も無かったところから、このお茶屋を禅宗の寺とした。中川家菩提寺の始まり、碧雲寺である。古田重則が兄重續の墓碑を建てようとした時、又その重則自身の墓碑も、禅宗寺院はまだ無かったので、天台宗蓮成寺に設けたことは以前話した。蓮成寺が廃寺となっていたばかりに、位置を捜すのに少し手間取った。鷹匠町の東巌寺にわずかばかりの草庵があり、そこに住んでいた高僧雲室禅師に、碧雲寺初代住職をお願いした。

その後、高流寺の開山であった桐谷禅師が、雲室和尚の没後碧雲寺二世となっている。高流寺は、藩主の学問所としての性格が強かったのかもしれない。桐谷和尚が住職であった高流寺には、藩から年に米十五石が提供された。古文書に「上の山畑下し置かる」とあるのは、裏手の山のことだろう。境内から続く山裾は、檀家さんたちの墓所であり、中腹一帯は古田家の墓碑が並ぶ。一昨年から、研究会で草切りや竹の伐開をしているが、今後もそれを維持していくのは難かしいだろう。

二代藩主久盛公は、桐谷禅師に草庵に住んでいた時から学んでいたが、高流寺住職となってからも参学は続けた。城を出て、愛宕谷を通り、稲葉川を渡る橋を高流寺下に設けた。藩主が学びに通う橋の故に、「参学橋」と呼ばれた。織部の孫である中川重直は、京都から帰って後、隠居の身とて名を素単居士と改めていたが、この橋は素単居士が申し上げて造られたものであり、平日素単も往来していた故に、世の人は「素単橋」とも呼んでいたという。碧雲寺に隣接する「おたまや公園」は、かつて岡藩三名園の一つで「菖蒲園」と呼ばれていた。蓮の花が盛りの頃、早朝四代藩主久恒公は度々碧雲寺を訪れ、和尚の点前を楽しんでいたという。池の畔にあったその茶室を、「松風軒」といい、100年の後、古田廣計の不染斎随筆に、「茶室アリシ所、今モ池辺ノ岩上ニ其跡イササカ見ユ」とある。また「茶室の露地に据えられていた青石は、火災の後建て直された寶永2年(1705)、碧雲寺書院の庭に移されたが、近年住職より譲り受けた。廣計自宅の茶室『淵黙庵』の、刀掛けの下にある二段の石がそうである」とも書き残されている。松風軒の跡も淵黙庵も、確認できない。400年前の菖蒲は、近年の水害で流失し、今は無い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?