お茶あれこれ259 2017.1214~1220

1. 武野紹鷗
今日は討ち入りの日だなあ。微かに風花が舞っているが、片岡千恵蔵の大石内蔵助が、吉良邸へ討ち入りした元禄15年(1702)のように降ってはいない。映画の話であって、実際に降っていたかどうかは知らない。

毎年12月9日には、水仙を大壺に入れ玄関に置く。長崎から取り寄せているようだが、花屋の話では近年花が遅くなり、手に入りにくいという。数本は居間に置く、心を良質にするというとおかしいが、そんな香りに包まれる。人間の質がよくなった訳ではない。74歳になろうという者に、今更良質になることなど望みようもない。


江岑夏書から、7月3日の項。「めんつうハ紹鷗初面このミ出シ被申候、休直し不被申候、いろり一尺四寸とめんつうとハ紹鷗作也、休奇妙と被仰候、堺ニ紹鷗所持之めんつう在之、織田有楽もらい被成、替ニ黄金壱枚被遣候由」

(「めんつう」は面桶と書く木地の曲げ物建水であることはご承知だろうが、念の為)面桶を好みで使ったのは武野紹鷗が初めてです。利休が、それを手直しなどすることはありませんでした。炉の寸法を1尺4寸に決めたことと、建水としての面桶を作ったのは、紹鷗です。利休はたいそう面白く素晴らしいものと仰られました。堺に紹鷗が所持していた面桶を持っている人が居ます。これは織田有楽が黄金1枚を払ってもらい受けたものだそうです。と、訳してみた。

以前も武野紹鷗について話したことがあるが、利休を指導したほどの豪商茶人であるのに、その茶筋は伝わっておらず、不明な部分が多い。亡くなった理由からして、覚悟の自殺と言われるも詳しくはわからない。後の時代に名が残る茶人は、ほとんど紹鷗から学んだ弟子である。堺の辻玄哉は京都禁裏御用の呉服商であったが、紹鷗から相伝の台子式を利休に伝えている。ここまでは紹鷗の茶の湯は引き継がれている。辻はその後松尾と名乗り、五代までは茶道継承よりも、呉服商として数寄者の道を楽しむ方を選んだようにある。六代の松尾宗二は、表千家六代覚々斎に習い、松尾流初代として尾張徳川家の御用をはじめ、尾張の町衆へ茶の湯と京文化を伝えることになる。時代は下がって、幕末蛤御門の変で京の屋敷は全て焼失し、名古屋へ移住した。つまり、武野紹鷗の茶筋は、茶碗を回さず正面からいただくなど、幾つか名残を残しながら、表千家へ移行しつつ松尾流となったのだろうか。詳しいことがわからない。

武野の家筋は、紹鷗が亡くなった時には息子は幼く(6歳)苦労もしたようだが、紹鷗の道具や資産を管理してきた義兄天王寺屋津田宗及と相続争いをし、信長の裁定によって敗れ追放された。その後秀吉にも見放され、家康の取り成しで秀頼の同朋衆になるも、結局失意のまま生涯を終えた。その子たちは、織田有楽斎の推挙により尾張徳川家に儒者として仕えたという。初めて和歌と茶の湯を融合させ、芸術文化に昇華させた茶人武野紹鷗の像が、大坂市天下茶屋の「紹鷗の森」にある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?