お茶あれこれ301 2018.0407~0422

1. 中川廣倫Ⅱ
紫から藤色の花が目に付くようになった。ご近所の裏の畑へ上がる土手に、山藤が花をいっぱい付けているのが見える。桜が終わると、入れ替わりに藤の季節になる。庭では、蔓桔梗が咲き始めた。家では、蕾を胡銅鶴首に入れた。先日の稽古の日、竹花入れを壁に掛け、蔓桔梗と黄花踊子草を入れた。
菫やハナニラが小さな群を作って咲いている。青紫のイチハツの蕾が、急に目立ってきた。一初とも逸初、一八とも書く。あやめの種類で初めに咲くから、一初というらしい。ぽってりとした姿から、何か良質で上品になれそうな、いい香りが漂う。根っこは下剤としての効能があり、生薬に使われてきた。今はもう見ることはなくなったが、茅葺屋根の棟に一初を植えてあったのは魔除けの意味である。

中川廣倫が書き残した古田家文書「村々産物之覚」を続ける。祖母山麓の村々では、炭焼きや干椎茸や山芋が多く、串柿や葛籠(つづら)、蕨(わらび)、松茸などもある。地域も、現在の豊後大野市(ここは隣、元々ほとんどが岡藩)、佐伯市(豊後大野を通り越した先の山沿い、鉱山があった)、大分市(内陸部の方や鶴崎の港口)、由布市(竹田市と隣接する山沿い)などが含まれ、かなり広い藩域であった。「川茸や川ノリはできたが、少々なので助けになるほどではない」という文面も中に書かれている。老職中川廣倫が、住民の立場に沿って書き込んでいった報告と言えないだろうか。

安永7年(1778)24歳の古田廣倫は、急逝した父に代わり千百五十石老職を相続し中川姓をいただいた。時の藩主久貞公は、病がちで江戸在住の方が多く、国元へは三男久徳が隔年で帰ってきている。明和6年(1769)から天明3年(1783)までの間、岡藩は地震、台風、天候不良、大火が続き財政は逼迫する。七千両を借り入れ10年でやっと返済すると、三千両をまた借入するというような状況だった。この非常事態に、藩政改革を命じられたのが井上並古と勝手御用掛を命じられた中川廣倫である。寛政2年(1790)久貞公病死。家督を継いだ九代久持公(久貞の孫)も、寛政10年9月に病死。11月29日に大和郡山藩から養子に来られた久貴公は、12歳だった。江戸上屋敷から久貴公は、12月21には廣倫へ書付を送っている。岡城西御廓吉野の間で廣倫が書付を頂戴したのは、正月11日。参勤交代の日数からすれば、この使者は正月関係なしに早馬を飛ばせたものであろう。久貴公の書付は、「近年人別は減少し、困窮する状況は甚だよろしくない、廣倫の病がちなことは聞いているが、保養をしながら、地方役人共の存念も聞き、とにかく地方が成り立つように取り計らえ」という重い御用であった。廣倫は、藩内の村別画図や調査資料などを2月、3月、4月に江戸へ送り、久貴公は書付を以て指示をしている。2月の藩主への言上は「先達て古田廣計が出府の折にも申し上げた通り、庶民年来困窮で次第に人別減じ、離散の者もあり、耕作も行き届かず、荒れ地になるも少なからず、(次へ続けます)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?