お茶あれこれ241 2017.0929~1020

1. 出羽の芭蕉
やっと白の杜鵑が咲き始めた。紀伊上臈杜鵑も一つだけ蕾が黄色くなってきた。杜鵑の清楚な白と、紀伊上臈の高尚な黄色に、言葉は要らない。

前回の最上川上流の大石田における5月29日、改めて芭蕉の発句から。
「さみだれを あつめてすずし 最上川」  発句・芭蕉
「岸にほたるを つなぐ舟杭」       脇句・一栄
「瓜はたけ いさよふ空に 影まちて」   第三・曽良
「里をむかひに 桑のほそみち」      四句目・高桑川水
「牛の子に こころなぐさむ 夕間暮」   五句目・一栄
「水雲重し ふところの吟」        六句目・芭蕉   

泊って俳諧の指導をしてくれる芭蕉の、発句に対して感謝の脇句を出した一栄の後、次に雰囲気を変えて曽良が続いた。四句目は、同じく地元の俳人である川水が出したところで、その日は中止する。具合の悪い曽良を宿に残し、三人は黒滝山向川寺に行った。翌30日に続きを再開。大石田に三泊して、雨で増水した最上川を船で下っている。奥の細道で本文には川の名が多数出てくるが、句に詠み込んだのは最上川だけである。芭蕉が、自然景観を俳句に捉えるだけなら、通って来た他の川も句に詠んだのだろうが、全く残していない。景観よりも歴史や和歌の名所としての歌枕に、深い思いがあったのではないか。最上川は、古くは義経の一行が1187年2月、雪の降りしきる中、最上川を遡り平泉へ向かっている。義経をかくまった藤原氏は、頼朝によって滅ぼされる。ちょうど500年後の元禄2年(1689)5月に、芭蕉は中尊寺を訪れ句を残した。それが「夏草や兵どもの夢のあと」であり、「五月雨の降り残してや光堂」である。大石田で泊まった2週間前のことになる。

平安時代から江戸期まで、あらゆる和歌集に最上川は詠まれ、藤原俊成や西行、吉田兼好など70首ほどの和歌が残されている。実際、芭蕉は西行を追い掛けたものであるし、同じ歌枕の地を詠もうとして来ている。古今集東歌から、最上川の歌を引いてみる。
「最上川 のぼればくだる 稲舟の いなにはあらず この月ばかり」
恋の歌である。「のぼればくだる」の言葉は、恋の告白に片道切符ではなく私もそうよと受け入れた意味だろう、でも「いな(否、NO)」ではないけど今月は待って、ちょっと都合が悪いの、と。「最上川のぼればくだる稲舟の」は、「いな」を引き出すための枕詞のようなもの。この歌は、東歌の詠み人知らずとあるので、陸奥で詠んだのかもしれないが、わからない。おそらく平安貴族たちの歌は現地を知らず、有名な歌枕として最上川を想像で詠ったものと思われる。それにしてもこの時代、既に稲を都へ送る船運があったことになる。芭蕉は、ここで歌仙を巻いて俳句の指導を残してきたことを喜んだように、奥の細道に残している。

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